日本史偉人伝

吉田松陰(2)

2018.08.15

今回は、前回に続き吉田松陰を紹介します。

嘉永6(1853)年1月、諸国遊学に旅立った松陰は、大阪、大和、伊勢などを巡り歩き、5月24日に江戸に到着しました。それから10日ほど経った6月3日、アメリカ人のペリー率いる4隻の黒船が浦賀沖に突如として姿を現しました。黒船の情報を聞きつけた松陰は、すぐに佐久間象山の塾におもむきましたが、象山はすでに浦賀に出発しており、松陰ものちに合流しました。象山個人の意見としては、「向こうの出方によっては、一戦もあり得る」というものでしたが、幕府が国法を曲げ、浦賀でアメリカからの親書を受け取ることにしたため、戦い自体は起こりませんでした。松陰は黒船の脅しにやすやすと屈した幕府の対応と防御が手薄な日本の現状を深く悲しみました。以降、松陰は佐久間象山の塾に頻繁に出入りするようになり、「開国攘夷論」という考え方を身につけました。

象山は、今後の沿岸防衛のため、幕府へ、「操船・造船術などを身につけさせるため、若い人物をオランダに留学させてはどうか」という提案を行いましたが、幕府はこれを受け入れませんでした。その話を象山の塾で聞いた松陰は激しく憤り、自力での海外渡航を決意します。安政元(1854)年、大統領の親書に対する回答を受け取るため、ペリーが来航した際に、海外渡航を試みようと、金子重之助とともに計画を実行に移します。3月27日の朝、松陰たちは下田でアメリカの士官に会い、黒船からの迎えを待つ旨の手紙を手渡しました。その晩、海岸で迎えのボートを待ちましたが、一向に船は来ません。仕方なく、すぐ近くの海岸につながれていた一艘の小舟で黒船に向かいました。波が非常に高い状態でしたが、それでも必死にこぎ続け、ようやく黒船に激突する形で側に舟をつけました。気づいた米兵が木の棒で小舟を突き放そうとしましたが、松陰らも強く抵抗し、黒船の梯子段に飛び移りました。しかし、その際、刀や荷物が載ったままの船は流されてしまいました。2人は甲板に上がり、通訳のウィリアムズと話をします。

「今帰れば、私たちは国法を犯した罪で捕まります。一緒にアメリカに連れて行って下さい」

「お気持ちは分かりますが、今は条約を締結したばかりの大事な時期です。その願いを聞くことはできません」

結局、2人の希望は叶えられず、一番近い海岸まで送り返されたのみでした。流された小舟が見つかれば、佐久間象山や友人、藩主にまで迷惑が及ぶ恐れがあったため、その地域の名主の所に名乗り出ました。江戸の伝馬町の牢獄につながれることが決まり、下田から江戸に送られる途中、泉岳寺という赤穂浪士を祀るお寺があります。そこを通り過ぎる際、松陰は次の歌を墓前にささげました。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

(密航に失敗すれば、捕まることは分かっていた。しかし、国難を救うためには、日本人として為さざるを得ないことだったのだ)

幕府からの判決は、意外にも「自宅蟄居(謹慎)」という寛大なものでした。しかし、萩に帰ってみると、松陰は野山獄に、金子重之助はその向かいの岩倉獄に入れられました。江戸にいた時から体調を崩していた金子は、獄に入って2か月後に、病状が悪化し、25年の短い生涯を閉じました。彼の死を悲しんだ松陰は、獄中での食事を減らしてお金を捻出し、後に金子の墓前に石の花立を捧げました。

野山獄には、11名が入獄していました。大部分は犯罪者ではなく、家族や親戚から嫌われ、借牢の上入れられた者がほとんどで、口を開けば「私たちは結局この獄中で死ぬだけです。出獄を許され、再びお天道様を見ることはないでしょう」と将来に希望を持てない生活を送っていました。そんな中、松陰は、変わらず読書に明け暮れました。一日三冊という日課を立て、朝起きてから夜眠るまでひたすら読み進めました。周りの囚人たちは、当初、冷ややかな目で見ていましたが、日が経つにつれ、彼らの態度も次第に変化していきました。

この続きはまた次号で。


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