今回は、これまで紹介してきた多くの幕末・維新の立役者を育てた人物、吉田松陰を数回にわたって紹介します。
天保元(1830)年、毛利藩士であった杉百合之助と妻・瀧の間に男の子が生まれました。幼少期は虎之助という名前で、百合之助の二男でした。この人物が、吉田松陰です。百合之助は、萩(現在の山口県萩市)の東にある松本村に住む武士でした。武士とはいえ、苦しい家計の中で生活を送っていましたが、神と皇室を敬う心が篤い人物でした。畑仕事の際には、兄の梅太郎と虎之助を連れて行き、古典の素読などを行っていました。瀧は、やさしく穏やかな人柄で、明るい気性を持ち、貧苦に対しても笑顔で乗り越えていました。このような両親のもとで、虎之助は成長していきました。
天保5(1834)年、5歳の虎之助は叔父である吉田大助の仮の養子となりましたが、翌年に大助が死去したため、虎之助は杉家に住みながら吉田家を継ぎました。もう一人の叔父である玉木文之進の元で学問を学びましたが、教育方法が非常に厳格なことで知られていました。読書中に顔を蚊に刺されてかいていると、「読書といえども学者になるための公務であり、私事に心を動かすなどもっての外」と、顔に拳骨が飛んでくるほどでした。そんな厳しい指導にも、歯を食いしばりながらついていきました。
天保11(1840)年春、藩主・毛利敬親の前で御前講義を行うことになりました。当時まだ10歳でしたが、『武教全書』戦法篇を堂々と講義し、敬親も「みごとであった。今後、一段と精を出して励めよ」と言葉をかけたほどでした。
19歳になった松陰は、藩校・明倫館の正式な兵学教授になっていました。嘉永3(1850)年、松陰は九州を遊歴する旅に出ます。長崎では出島のオランダ屋敷を見学し、ナイフとフォークで洋食も食べました。その体験を通して、西欧文明を肌で感じると同時に、(西欧の力が武力となって日本に迫ってきたら、どう防げばよいのだろうか)と危機感を覚えました。
清国がイギリスとのアヘン戦争に敗れたことに関連し、清国自体が衰退した原因として、松陰は、規律が緩んだことによる漢奸(国家への裏切り者)の存在、アヘン密輸入問題、キリスト教の影響などの弊害があったと考えました。この時点で松陰は、法律がきちんと整備・施行され、敵を手引きするおそれのない日本人が一致団結して西欧諸国に当たれば、清国の二の舞になることはないと考えていました。そして、そのような西欧諸国を打ち払うことは正当な権利であり、さらにわが国には頼るべき各地の大名、代々仕えてきた武士がいると自信を見せていました。
嘉永4(1851)年3月、藩の命により江戸に留学する機会を得ました。そこでは、学者である佐久間象山に出会うことができました。海外事情に詳しい象山は、松陰にこう言いました。「海外に人材を派遣し、進んだ知識や技術を取り入れなければ、国をほろぼすことになる」象山の大胆な開国思想は、松陰の心を強く揺さぶりました。
また、同年、手形なしで陸奥(東北地方)に向かった際、途中で立ち寄った水戸で日本の歴史の大切さに気づきます。水戸学の大家である会沢正志斎の『新論』を平戸で読んでいた松陰は、水戸に着くとすぐに会沢の家を訪ねました。すると、会沢は松陰にこう問いかけたのです。「あなたは、日本の歴史はよく学ばれたか。日本の国柄を尊ぶべき理由を知っておられるか。」松陰がそれまで学んだ学問は、漢学ばかりでした。そこで自国の歴史をあまり学んでこなかったことに気づき、深く恥じました。のちに、その時の思いを、
「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らずんば、何を以て天地に立たん(天皇を中心とする国に生まれ、その国柄を尊ぶべき理由を知らずして、どうして世のために役立つ人間になれるだろうか)」
とつづっています。続きは次号をお楽しみに。