最近、多くの中学校で「立志式」という行事が行われるようになりました。これには、武士が15歳で元服していたことにちなみ、大人に近づく自覚を持たせる意味合いがあります。本日紹介する橋本左内は、14歳で『啓発録』を書き、5つの要目(稚心を去る(子供っぽさから離れる)、気を振う(やる気を奮い立たせる)、志を立つ(志を立てる)、学に勉む(学問に励む)、交友を択ぶ(友達とするにふさわしい人を友に選ぶ))を挙げて自らを律しました。
福井藩医を父とした橋本左内は天保5(1834)年に生まれました。幼少のころから「神童」と言われるほどで、一度も人と争ったことのない温和な性格でした。15歳の時、大阪の緒方洪庵に弟子入りし蘭学を学びました。『啓発録』を書き上げたのはこの前年です。最年少でしたが一心不乱に学び、やがて塾中第一の学力を認められました。
あるとき、左内が連日夜間外出した時期がありました。塾生たちは、左内もついに夜遊びに出かけたかと思い、そっと後をつけていくと、橋のたもとの小屋に入りました。左内は、そこで病気にかかった乞食を診てやっていたのでした。後をつけた塾生は己を恥じ、洪庵にこれを伝えました。洪庵は全塾生にこのことを話し、左内に見習い、一層勉学に励むよう伝えました。
左内は洋学のみならず、和漢の学問にも打ち込みました。その人物、学問、見識がずばぬけていたので、21歳にして藩医を免ぜられ、やがて藩主・松平春(しゅん)嶽(がく)の侍(じ)読(どく)となり、深く信頼され腹心として活躍しました。
左内の志は、国難に直面した日本を救うことでした。
「医に小医あり、中医あり、大医あり。小医は人の病を治し、中医は小医の師となりてこれを救う。大医は天下国家の病根を治す。われすべからく大医たらざるべからず」
まさに左内は「大医」を目指していました。
嘉永6(1853)年、ペリーが来航した際には、左内自身が京都で公卿と会い、外国との条約締結と開国通商については、必ず朝廷の御判断を待つべきであると働きかけました。しかし、井伊直弼の独断で天皇のご許可がないまま日米修好通商条約が結ばれました。
また、当時、将軍継嗣問題について、一橋(徳川)慶喜を推す一橋派と、徳川慶福を推す南紀派の間で勢力争いが起こっており、これも井伊によって次の将軍は徳川慶福に決められ、一橋派は安政の大獄で弾圧されました。左内は南紀派とははげしく対立する立場でしたが、幕藩秩序を破壊する考えはありませんでした。左内の真意は反幕府の立場でなかったものの、左内がまだ若い身でありながら将軍継嗣推挙という重大事にかかわり、本来は主君である松平春嶽をいさめるべきところ、それをせずに、春嶽の命ずるままに朝廷・公卿を説得しようとしたことは許すべきことではないと幕府は考えたのです。
安政6(1859)年の10月、橋本左内は江戸伝馬町の獄舎で25年の短い生涯を終えました。天を衝く志をもって国事に奔走した佐内が、安政の大獄により亡くなったのは、日本国にとっても大変惜しいことでした。獄中で左内の死を聞いた吉田松陰は、
「左内とは面識がなかったが、左内を生き返らせて、心から話し合いたい」
と嘆いたといいます。歴史に「もし」は禁句ですが、もし左内が生きていれば、明治維新もまた良い意味で違ったものになっていたのかもしれません。