今回は、激動の幕末期に国難に立ち向かわれた、孝明天皇を紹介します。
明治維新が成就する際、孝明天皇の果たされた役割は非常に大きいものでした。孝明天皇は、欧米のアジア侵略の野望を誰よりも憂慮され、このうえない危機感を抱かれていました。御年16歳の弘化3(1846)年、父君であった仁孝天皇の後を継いで即位されました。
即位されてすぐの頃、イギリスとフランスが沖縄に押しかけたとき、孝明天皇は異例にも幕府に対して海防督励の勅諭(詔勅)を下されました。
「猶(なお)この上武門の面々、洋蛮の事小(しょう)寇(こう)を侮らず大敵を畏(おそ)れず、宜しく籌(ちゅう)策(さく)これ有り、神州の瑕(か)瑾(きん)これなきよう、精々御指揮候(そうろう)て宸襟(しんきん)を安んぜられるべく候」
これは、「欧米の来航においては、小さな国を侮らず大きな国にも恐れず、しっかり作戦を立て、皇国日本の尊厳・名誉を傷つけず、欧米の侵略を防ぎ、わが国の独立を堅持すべきである」という意味です。
幕府は対策を怠ります。やがてペリーが来航し、わが国は近代的軍事力を背景としたアメリカの開国要求にさらされます。当時、清国がアヘン戦争で敗れ、インドも植民地化されるという状況の中、欧米の列強諸国に踏みにじられることなく国家の独立を保つことが、最大の課題でした。
さらにそのあとハリスが来航し、通商条約の締結を迫りました。このとき幕府は一部の反対を抑えるため、孝明天皇に条約調印の勅許(ちょくきょ)を要請しました。幕府はこれまで同様、幕府の進言に朝廷が異を唱えることなどないと見くびっていました。しかし天皇は国体の堅持、日本の確固たる独立という根本に立ち、この不平等条約(対等条約に改正されたのは明治44(1911)年)の締結を不裁可されました。実に正しいご判断でした。
「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民(くにたみ)」
という孝明天皇の御製にそのお心が示されています。
孝明天皇は、条約調印については、幕府が諸大名の意見を聞き、話し合いを尽くして対応するように指示されました。同時に、孝明天皇ご自身も伊勢神宮などにご自筆のお告げ文を持たせ使いを出され、この間、ご自身は夜の御所の庭に立たれて、ひたすら国家の安寧を祈られました。そのお側には、当時幼い後の明治天皇のお姿もありました。
しかし結局、幕府は大老井伊直弼の下で条約調印に踏み切ります。井伊の独断で決定したことに対し、孝明天皇はお怒りになり、攘夷の意向を示されました。また、志士たちも憤激します。さらに井伊は、幕府への反対者を次々に弾圧しました。安政の大獄です。その後、井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸の浪士らに討たれたことは、皆さんもご存じと思います。
孝明天皇は、慶応2(1866)年、36歳の若さで天然痘にかかられ、崩御なされました。孝明天皇がいかに国家国民を深く思われたかは、
「朝夕(あさゆふ)に民(たみ)安かれと思ふ身の心にかかる異国(ことくに)の船」
の御製にも明らかです。志士たちはこの御製を涙をもって拝誦し、国難に立ち上がり、倒幕を経て明治維新を成し遂げたのでした。