今回は、西郷隆盛との江戸城での会談により、無血開城を実現させた勝海舟、槍術を学んだ山岡静山の弟で、後に鉄舟の義理の兄となる高橋泥(でい)舟(しゅう)とともに「幕末の三舟」と呼ばれた、山岡鉄舟を紹介します。
山岡鉄舟は天保7(1836)年、幕臣の小野高福と磯の間に生まれ、通称は鉄太郎と呼ばれていました。9歳から剣術を習い、15歳から、井上八郎(清虎)に猛稽古の指導を受けました。ほぼ同時期の10歳~17歳までの期間は、父が飛騨郡代に任ぜられ、高山で生活していました。
母である磯は、「百姓・町人の子と一緒に学ばせる」という教育方針を持っていました。また、「『若様』扱いは、父親の仕事の役割が尊敬されているだけ」と、身分の下の者に対し優越意識を持たないように育てました。しかし、母は鉄舟が16歳のとき、父も17歳のときに亡くなりました。
鉄舟は、書の名人・剣の達人として有名です。書については、一文字の意味を徹底理解し、白い紙に表現するので、一文字に全精神が映し出され、見るものの心を打ったと言われています。剣についても、父の亡き後は江戸に戻り、玄武館道場に入門し、猛烈な稽古をすることと、稽古に打ち込むゆえ身なりをあまり気にしなかったことから「鬼鉄」「ボロ鉄」と呼ばれるようになりました。また、「胆力を練るには剣と禅」という父のかつての言葉を思い出し、座禅に取り組むようになります。
山岡鉄舟が為した大きな功績の一つに、江戸城無血開城への画策がありました。安政6(1859)年、鉄舟が24歳の時、同志とともに尊皇攘夷党を結成します。慶応3(1867)年の大政奉還後、15代将軍徳川慶喜は朝廷に従うことを表明し、上野寛永寺で謹慎生活を送っていましたが、官軍は鳥羽伏見から「朝敵」討伐のため江戸に向かいました。江戸が火の海になる前に、徳川家が朝廷に対する絶対追従の意を伝える必要があったのです。その適任者として選ばれたのが鉄舟でした。
鉄舟は慶喜と会談し、「断じて二心はあらず。何事も朝命には背かざる赤心なり。」との慶喜の言葉に対し、「不肖ながら鉄太郎必ず朝廷へお心を貫徹し御疑念を解きます。」と答えて、朝廷に出向きます。その際、官軍の中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、急用あってまかり通る」と大声で通って行ったと伝えられています。
鉄舟は官軍側の総大将であった西郷隆盛に直談判します。降伏の条件としての七箇条のうちの一つに、「徳川慶喜を備前藩にあずけること」という内容がありました。これに関し、鉄舟は受けられないと拒否します。西郷が「朝命ですぞ」と言っても押し返し、仮に西郷の主人島津公が慶喜の立場にあったらどうか、と訴えました。これには西郷も納得して引き下がりました。西郷隆盛の言葉を残した「南(なん)州(しゅう)翁(おう)遺(い)訓(くん)」に、「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり」という一説がありますが、これは山岡鉄舟のことを表したものであると考えられています。
鉄舟は、維新後には行政官として活躍します。現在、静岡は全国的な茶の産地として有名ですが、その基礎は、鉄舟が職を失った士族への補助事業である士族授産として牧之原で茶畑を開墾したことに始まります。
明治5(1872)年から10年間は、西郷隆盛からの依頼で、宮中に侍従職として入り、明治天皇の教育係を引き受けることになりました。明治天皇の信頼は厚く、御巡幸の際にも皇后陛下に「留守には鉄太郎を残して行くゆえ、万一のことがあろうともいささかも気遣いはない」とおっしゃるほどでした。
明治21(1888)年7月19日、勝海舟らに看取られながら山岡鉄舟はこの世を去りました。葬儀の日、明治天皇の命により、皇居御所の前で10分間、葬列がとどめられました。幕末期の戦乱を生き抜き、多くの功績を残した鉄舟にとって、それは最高の栄誉となったのではないでしょうか。