今回は、明治維新を成就させる上で最も大きな存在であった明治天皇について紹介します。九万三千首もの和歌を詠まれ、わが国最大の歌聖とも言われています。
明治天皇は、嘉永5(1852)年9月22日(新暦の11月3日)にお生まれになりました。幼少期から書道や漢文について学ばれており、儒教の本も素読されていました。満5歳で初めて歌をお読みになりますが、それが九万三千首への第一歩でした。
孝明天皇が崩御なされた後、すぐに位に就かれ、大政奉還後に新しい政治の大方針をまとめた五箇条を、神々にお誓いする形で出されました。これが、五箇条の御誓文と呼ばれるものです。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
最初の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」は、皆さんも見たこと・聞いたことがあるかと思いますが、「重要な事項は多くの人々によって議論し、決めるのが良い」という、現在の議会制民主主義の基となる考え方をこのころから持っていらっしゃいました。
日本の存亡をかけた日露戦争に当たっては、明治天皇は最後まで平和を願われ、交渉による解決を望まれました。有名な「四海兄弟」という御製の中に、そのお気持ちが詠まれています。
よもの海 みなはらから(同胞)と 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ
「世界の人々は皆血を分け合った兄弟なのに、どうしてこのように波風が立つのだろう」と、日本の国民のみならず、全世界の人々にも思いを寄せられた歌を詠まれました。この歌は、日米開戦の前夜、昭和天皇も御前会議の席上でお読みになられたものです。
しかし、戦争が始まると、天皇はお体を顧みず軍務に励まれました。2月の開戦と同時に御座所にストーブは焚かれなくなり、厚い軍服一つで夏冬を過ごされました。前線の兵士と同じ立場に身を置こうとされたのです。
また、わが軍の損害が少なかったとお聞きになるとご安心なさいますが、敵軍の死傷者が多数あったとお聞きになった際にはお顔が曇られました。敵の将兵に対してすら慈しみを抱いておられたのです。旅順開城後の水師営の会見に向かう乃木大将には、「ステッセル将軍の面目を保つように」とお伝えになり、乃木大将もそのように取り計らいました。
同時に、明治天皇はいつも悠然としておられました。開戦後、わが軍の軍艦4隻が相次いで沈没するという大惨事の際も、日本海海戦の大勝利の際もそのお姿に変わりはありませんでした。
明治天皇は皇后であられた昭憲皇太后とともに東京の明治神宮に祀られ、神宮には国内外からの参拝客が絶えません。平成の世になった現在でも、日本の国と国民の様子を見守って下さっていることでしょう。