日本史偉人伝

昭憲皇太后

2018.01.15

今回は、皇后として明治天皇を支えられ、多くの国民から慕われた昭憲皇太后を紹介します。

 

昭憲皇太后は、嘉永3(1850)年、左大臣・一条忠香の三女としてお生まれになりました。

慈悲心の非常に深い方で、さまざまなエピソードが残されています。

明治4(1872)年、わが国初の女子留学生がアメリカに派遣されるとき、当時の皇后陛下は8歳から15歳までの5人の少女を皇居に招いて励まされました。

「よくぞ決心しました。見上げたものたちです。そなたたちが学成り、無事帰る日を待っている親の気持ちを日夜忘れずに励むように。体だけは十分気をつけるように」

皇后は一人一人にやさしいお言葉をかけられた後、紅葉の美しい吹上御苑にお連れになりました。そのとき、当時12歳の山川捨松(のちの大山巌夫人)の肩に手をかけられ、

「これ捨松とやらいいましたな。母恋しゅうて心ゆらいでも、せんない(仕方ない)年でありましょうに」

と言われました。皇后の目は涙でいっぱいでした。自分らに対して皇后様は親身で泣いて下さっていると思うと、捨松はたまらず、声を上げて泣きました。ほかの4人も大声で泣きました。後年、捨松はその時の感激を「私にとっては珠玉のような思い出です」と述べています。捨松らはその感激を胸に抱いて海外で日本女性の名に恥じない活躍を重ねたのでした。

 

日露戦争の際にも真摯に心を注がれました。明治37(1904)年2月6日、葉山御用邸に滞在されていた際、坂本竜馬の夢をご覧になり、夢に現れた竜馬が帝国海軍の勝利を告げて「ご安心なさいますように」との言葉を伝えられたといいます。当時の新聞にも報道されましたが、こうした夢を見られるほど日本の命運に寄せるご心痛は深いものでした。

一方、いざ開戦となると率先して戦傷者の治療に必要な包帯づくりに専念され、援助活動に打ち込まれました。宮中の一室は包帯製作室と化し、夜を徹して包帯づくりに励まれたと伝えられています。

 

そのお心は世界に向けても開かれ、「昭憲皇太后基金」を創設されています。これは、明治45(1912)年にワシントンで第9回赤十字国際会議が開かれた際、10万円(現在の額で約3億5000万円)を寄付され、これを基に創設されたものです。

明治21(1888)年、会津磐梯山が噴火した際には、皇后自ら、日本赤十字社から医師を派遣するようお命じになり、これが日本赤十字社の災害救護活動の草分けとなりました。

現在も、この基金はジュネーブにある「昭憲皇太后基金管理委員会」によって運営され、毎年ご命日の4月11日に世界の赤十字社へ援助金の配布を行っています。大正10(1921)年に始まって以来、第二次世界大戦中も含めて実施され、その配分は平成24(2012)年現在、158の国と地域に行き渡り、世界の医療と福祉の充実に大きく貢献してきました。日本の皇室の率先的な人道行為に、世界各地から深い敬意と謝意が寄せられています。

 

このような皇室のある日本に生まれて来ることができたことに感謝し、ともに皇室の繁栄を祈りましょう。


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