今回は、現在も多くの人材を世に輩出する「津田塾大学」の創立者であり、満6歳でアメリカに留学した津田梅子について紹介します。
梅子は、農学者として知られた父・仙と、母・初子の次女として生まれ、5歳のころから手習いを始めるほどの優れた才能の持ち主でした。梅子が6歳の時、北海道開拓使の嘱託職員となった仙が、開拓使次官であった黒田清隆が企画した「女子留学生」に梅子を応募させたところ、同年、条約改正のための予備交渉としての役割を担っていた岩倉使節団に随行し、アメリカに留学することになりました。もちろん、留学生の中では最年少でした。黒田は、子どもを育てる母親に教養が必要であるという思いを持っていたため、梅子の留学が実現したと言われています。
アメリカ留学中は熱心に勉学に励み、梅子の寄宿先のミセス・ランメンも驚くほどの熱心さでした。中でもピアノは卒業式に大統領夫人の前で演奏するほどでした。
梅子が日本へ帰国したのは1882年、出発から11年過ぎていました。「日本の女子教育に尽くしたい」との志を持って帰国した梅子でしたが、残念ながら当時の日本には梅子の志を実現できる場はありませんでした。華族女学校の教授補という要職にありながらも物足りなさを感じていた梅子は、再度アメリカへ渡りました。
アメリカのカレッジにおいてもその優れた才能を認められ研究者として留まるよう勧められた梅子でしたが、故国を遠く見つめながら改めて日本の女子教育の遅れを痛感し、学校創設を使命と考えるようになってきたのです。
1892年8月に帰国すると学校創設の準備にとりかかり、女子留学のための「日本夫人米国奨学金」の設立を手始めに、アメリカのデンバーで開かれた万国夫人連合大会には日本代表で参加するなど、日本の女性の地位向上のためのあらゆる努力を始めました。
そして明治37(1900)年7月、英語教育・英語教員の養成を目指した日本で初めての女子専門学校「女子英学塾」を設立したのです。第1回の入学者は10人、開校式は来賓を含めても17人というささやかな式でしたが、入学式のあいさつで「教師の資格と熱心と学生の研究熱心」の大切さを訴え、今でいう少数精鋭の教育を唱えています。そしてこう学生に呼びかけました。「all-round womenとなりなさい。」その言葉には、高い教養と豊かな人格を備えた女性という梅子の理想が投影されていました。今日、多くの人々に知られる津田塾大学の出発でした。学習内容はとてもレベルの高い内容で、当初はあまりの厳しさから脱落する生徒も多かったと言われています。
同時に、梅子は非常に日本の文化を愛しました。「津田梅子文書」として英訳した本には、那須与一(平家物語より)、敦盛最後の事(平家物語より)、正行吉野へ参る事(太平記より)など、女性でありながら軍記物を好んでいたそうです。
津田梅子は、このような言葉を残しています。「何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。」自分が考える女子教育のための学校を設立し、それを今日まで継続させた基をつくったからこそ、このような言葉を残したのではないでしょうか。