今回は、明治時代に『学問のすゝめ』を著し、一万円札の肖像画でも有名な福沢諭吉について紹介します。
福沢諭吉は天保5(1834)年、中津藩士の百助とお順との間に二男三女の末っ子として大阪に生まれました。
20歳の時、諭吉は大阪の適塾に入門します。そこで出会ったのが、蘭学者の緒(お)方(がた)洪(こう)庵(あん)でした。諭吉はあるとき、腸チフスにかかってしまいます。洪庵自身は医者なのですが、その際「親しい相手を診ると迷いが生じてしまう」という配慮から、友人の医者を呼び、できる限りの治療を施しました。そのことに恩義を感じた諭吉は、生涯洪庵のことを恩師と仰ぎ、慕い続けました。適塾では大いに学問に励み、塾生とも交流しました。自分が枕を持っていないということに気付かないほど、寝る間を惜しんで勉強をしました。
諭吉はオランダ語と英語を学び、若いころから西欧の新しい学問に通じていました。諭吉は安政6(1859)年、日米修好通商条約の批(ひ)准(じゅん)を交わすための全権団の一員として、咸(かん)臨(りん)丸(まる)でアメリカに渡る機会を得ました。学校、病院、動物園、鉄道、運河、議会、株式会社、などなど見るもの聞くもの全てが珍しいことばかりで、実物を前にして感動の連続でした。諭吉はこの航海によって幕府の外国方(現在の外務省に当たる)に雇われることになりました。その後も2度欧米に赴き、その経験と持ち帰った書物を後進の教育に充てました。諭吉が教えるその塾こそ、現在も大学などに名前が残る慶応義塾です。また、そのような経験をもとに諭吉は『西洋事情』という書物をあらわしました。この本で幕末の日本人は西欧の進んだ文明の様子を知ることができました。
明治元(1868)年、徳川幕府が倒れ明治維新が起こりました。政権をとったのは、外国を打ち払うことを主張していた攘(じょう)夷(い)派の勢力でした。開明的な思想を持っていた諭吉は、この新政府を支持できないと思いました。ところが政府は次々に大胆な改革を実行し、ついに明治4(1871)年、廃藩置県を断行して封建制度を撤廃してしまいました。諭吉は感激し、「これを見たらもう死んでもいい」とまで友人に語りました。
翌年、諭吉は『学問のすゝめ』という書物を著しました。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」というあまりにも有名なこの一句はその冒頭に掲げられたものです。この書物はたちまちベストセラーとなり、諭吉は続編を次々と書きました。それらの本の中で諭吉が訴えたのは、「独立自尊」の精神でした。また、現在、一部にはびこるわがままな自由、自分勝手な平等ではなく、真の自由・平等について人々に分かりやすく教えました。諭吉自身は一生明治政府にはつかえませんでしたが、言論の力によって新しい国づくりを支えました。
諭吉は学問を身につけ、文明を取り入れることを熱心に説きました。しかし、諭吉はただの「西洋かぶれ」ではありませんでした。文明を取り入れるのは日本国家の独立が目的で、文明はその手段にすぎないと言っています。世界を回って西洋人にこき使われるアジア人の無気力なさまを見てきたからこそ、諭吉はそのように強く思い、広く世間に訴えたのでした。帝国主義の時代、アジアで唯一日本が独立を守ることができたのは、諭吉の思いが多くの国民に伝わったからではないでしょうか。
福沢諭吉は明治34(1901)年2月3日にこの世を去りましたが、それから100年以上経った現在も、一万円札の肖像画となって、日本全国、さらには世界の様子を眺めています。