今回は、明治期の博覧会事業を推進し、日本赤十字社の創設に向けて尽力した佐野常民を紹介します。
佐野常民は、佐賀藩士である下村充贇(みつよし)の五男として、文政5(1823)年2月8日に現在の佐賀市に生まれ、幼名を鱗三郎といいました。天保3(1832)年の春、鱗三郎は下村家の親戚で藩医をつとめる佐野家の養子となり、医者を志すことになりました。藩主・鍋島直正に学才を見込まれた佐野は、大阪の緒方洪庵が開いた適塾を中心に蘭学を学びます。佐野は、その経験を買われて洋書の分析が不可欠な清煉方の主任に任命されました。
佐野は、佐賀藩の藩政改革と軍制改革をいちはやく建白しました。この背景にあったのは、開国による列強国の圧力や桜田門外の変に代表される国内の動きでした。しかし、そこから10年も経たないうちに江戸時代の政治体制が崩壊することになります。
そんな中、慶応2(1866)年にフランスからパリ万博への出品要請を受けた幕府は、各藩に対しても参加を呼びかけました。ただ、この動乱期に参加を表明したのは佐賀藩と薩摩藩のみでした。販路拡大を狙う鍋島直正は、派遣団の代表に佐野を任命し、パリに派遣しました。その途中で寄港した香港で、アヘン戦争後に西洋化された清国の様子を目の当たりにします。佐野は、日記に「清国では内地にまで西洋人が勝手に入り込んで交易を行っており、清国の豊かさを吸引している。日本も清国の覆轍を踏まないよう、早く目覚めなければならない」と記しました。半植民地化された様子に衝撃を受けていたようです。明治6(1873)年にも同じようにウィーン万博に日本から出展しました。
明治10(1877)年、最大にして最後の士族の反乱である西南戦争が勃発しました。佐野は4月6日、負傷した兵士の手当てを主な目的として「博愛社」の設立を右大臣の岩倉具視に願い出ました。また、同時に、薩摩軍の兵士に向けても救護をするように、次のように主張しました。「暴徒の死傷者は救護体制も整っていないため、山野で雨露にさらされたままです。彼らは官軍に敵対したといっても皇国人民、皇家の赤(せき)子(し)(子供)です。負傷して死を待つ者を捨てて顧みないのは人情の忍びないところです。彼らを救助、治療したいのです。」許可を得た佐野はすぐに田原坂に向かい、木葉(現在の熊本県玉東町)の正念寺に救護所を開き、赤十字の精神に基づき、敵味方の区別なく負傷兵を収容して手当を行いました。救護に当たった人びとは120名、救護を受けた人びとは、明らかになっているだけでも1429名におよび、当時の通貨価値で約7040円の費用がかかったといいます。これが日本赤十字運動の起こりです。正念寺の他に、包帯所として使われていた、近くの徳成寺の2カ所が日本赤十字社発祥の地として知られています。
明治20(1887)年5月、博愛社は日本赤十字社と改称し、その初代社長には佐野が就任しました。翌年、福島県の磐梯山噴火によって周辺の村落に多くの犠牲者が出たため、平時として初めて救護員を派遣しました。これを皮切りに、日本各地の災害に対して積極的に救護員を派遣していくことになりました。
佐野常民は明治35(1902)年12月7日、同じ佐賀出身の大隈重信らに看取られながら生涯を終えました。佐野は「誇り」を大切にした人間であり、外国から侮辱されたり、議論で負けることを嫌いました。富士山や日本美術のように、日本が誇るものを愛した人物でした。やはり、歴史を作ってきたのは「誇りある日本人」なのです。