今回は、現在の郵便制度の基礎を作った前島密について紹介します。
前島密は、越後高田藩の豪農であった上野助右衛門と妻・ていの間に生まれ、幼少期は房五郎という名前でした。生涯に三回名前を変えますが、最初は24歳のとき、巻退蔵と名前を変えます。次にはお家断絶の危機に見舞われた前島家からの養子縁組の話が持ち込まれ、それを引き受けて前島来(らい)輔(すけ)と名乗ることになります。その後、来輔の「輔」が官位の名称を表す通称であったために、密と名前を変えました。
前島が郵便を含む通信の重要性を感じたのは、前島が薩摩から郷里である越後に帰郷した際のことでした。薩摩藩に「離職したい」という内容の手紙を十数通したためて送った前島でしたが、何重もの手間をかけなければ届かないしくみになっていました。念を入れて特別な手数料までつけて手配をしましたが、まさかの事態が起こります。念を入れて託した手紙が届かなかったのです。そのため、薩摩では藩士たちから不義の者と罵られており、さらには幕臣からは「薩摩藩のスパイではないか」という疑いもかけられていました。出した手紙が必ず届くしくみがあれば、このような事態は避けられたのにと前島は強く思いました。このことが、のちに郵便事業を手掛ける大きな要因の一つとなったのです。
明治新政府の一員となった前島は、渋沢栄一のもとで通信と交通の問題に取り組むことになります。東京・横浜間に鉄道を通した場合の土木・建設等にかかる出費と、営業収支の見積もりを大隈重信に依頼され、徹夜で作り上げたのも前島でした。明治3(1870)年、駅逓(えきてい)権正(ごんのかみ)に任命されると、郵便事業設立のために本格的に動きます。当時は重要書類は「飛脚屋」に依頼して運んでいました。その月ごとの支払額はおよそ1,500両でした。その金額をベースに、毎日時刻を定め、公用の文書だけではなく、民間・一般の通信物も同時に運ぶようにすれば、みな便利になるのでおおいに通信を頼むようになるだろう、と前島は考えました。前島は、これを「郵便」と名付けました。江戸幕府時代の漢学者たちは、特に飛脚で信書などを運ぶことを「郵便」と呼んでおり、漢学に造詣の深かった前島はその言葉を知っていたとみられます。
前島は同年6月、アメリカに渡ることになります。その時はまだ郵便制度は完成する途中であり、前島自身もいくつかの点で考えているところがありました。その1つが解決したのは、アメリカに渡る船でした。船内の掲示板に郵便に関する語句があることに気付いた前島が船長に尋ねると、詳細に説明し、さらに切手の再利用を防ぐ方法として現在も使用されている「消印」についても現物で示しました。前島は「こうするものなのか!」と感心したという話です。新式郵便は、明治4(1871)年3月1日に東京・京都・大阪間に開設されました。
郵便事業が大きくなる中で、以前から信書を取り扱っていた飛脚との対立もありましたが、前島の提案により、同業で団結し、各郵便取扱所での金銭の受け渡し、郵便用の物品輸送を担ってもらうことで解決しました。この元締めになったのが「陸運元会社」でした。現在の「日本通運株式会社」の前身です。また、現在は当たり前のように届けることのできる外国郵便についても、明治8(1875)年の元日、アメリカとの郵便交換条約が実施に至ったことで、実現にこぎつけました。
さまざまな事業を手がけた前島密は、「賄賂をもらっているのではないか」などと陰口をたたかれることもありました。しかし、前島の願いは、事業を発展させることにより国を富ませることでした。
前島密は、現在も故郷である新潟・上越の「前島記念館」前に立ち、日本の郵便事業を見つめています。