日本史偉人伝

河原操子

2017.01.15

今回は、明治時代に日本人として教育の分野において国際貢献に力を注いだ人物である、河(かわ)原(はら)操(みさ)子(こ)を紹介します。

 

河原操子は、明治8(1875)年、河原忠の長女として長野県松本市に生まれました。操子は、漢学者であった父の感化を受けて育ちます。内容ははっきりと分からないながらも、これが操子の子ども心に深く刻まれました。母親は操子が14歳の時にこの世を去ってしまいましたが、操子は「お父さんは、朝夕を労り慰めてあげるお母さんがないのだから、私が二倍の孝行をしなければならない」と考える親孝行な娘でした。

操子は明治29(1896)年、全国でも難関中の難関といわれる、東京の女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に合格し、その中でも抜群の成績を修めるほどでした。明治32(1899)年に長野高等女学校(現在の長野西高等学校)に就職しましたが、操子は、父が常々語っていた清国について研究したいという思いにかられます。

明治35(1902)年、現在の実践女子大学の創立者である下田歌子の推薦により、操子は上海の務本(ウーペン)女学堂の創設のための最初の女教師として赴任しました。その際に下田から、「あなたは日本から行く最初の女教師ゆえ、しっかりやって下さらぬと困ります」と注意を受けました。日本婦人の代表としての責任感を持ち、操子は上海に向かいました。現地に着くと、上海の城内は浴場もなく、不潔で悪臭が立ち込め、流行病がはやっていました。学堂はその城内にあり、生徒のほとんどは寄宿生でした。外国婦人はもちろん日本人は誰も住まない城内で、操子は生徒と生活を共にし教育を行います。一か月が過ぎ、下田が参観に来た時には、教室や寄宿舎はきちんと整理整頓され、生徒が日本の唱歌を歌い、日本語で別れのあいさつをするほどまでになりました。清国には今まで西洋人の建てた学堂しかありませんでしたが、この学堂の成功を見て、いくつかの学堂が西洋人の手により開かれていきました。

明治36(1903)年、内蒙古(現在の中国内モンゴル自治区)のカラチン王が、大阪の勧業博覧会を見学のため来日しました。王は、カラチンに女学校をつくりたいので有能な女教師を紹介してほしいと要請します。その役目は操子に回ってきました。この頃、ロシアが朝鮮の北方まで勢力を伸ばしつつあり、開戦へと動いていました。開戦ともなれば、自分の身に危険が迫ることも覚悟で、操子はカラチン王府の教育顧問として、そして内蒙古一帯でロシアがどう動いているかを伝える軍事上の特別任務を同時に受けたのです。もちろん不安な気持ちはありました。しかし、それを支えたのは、「このような大切な時に、国のために働くことができるのはこの上もない幸せである」という父からの手紙でした。

カラチン王府では、毓生(いくせい)女学堂を発足させます。操子は王府の侍女から教育を始め、王府外の人々のために園遊会や講演会を開き学堂の理解に努めました。最初は「日本人に食べられる」などの噂が広まりましたが、のちには「学堂へ行くと、色々なことが覚えられるそうだ」という評判になり、実際に通った人々は操子の誠意と人柄に触れ、教育の成果を見て、評判は遠方まで届き、多くの人が学堂で学ぶようになりました。

操子が帰国するとき、3人のカラチン少女が日本に留学することになります。この少女たちは操子を母のように慕い、操子も初めて国境を超える少女たちの心を思い子のように接します。のちにこの3人はカラチンに帰り学堂の教育に従事しました。

勇志の教育方針の五つ目に、「尊敬される国際人たれ」という項目があります。尊敬される国際人とは、母国に誇りを持ち、現地でも真心を以て人と接する、河原操子のような人物がそれに当たるのではないでしょうか。


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