今回は、「日本資本主義の父」「実業王」「財界の大御所」と言われ、近代日本経済の礎をつくった人物、渋沢栄一を紹介します。
渋沢栄一は、天保11(1840)年2月13日、武蔵国榛澤郡(現在の埼玉県深谷市)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれ、幼名を市三郎といいました。家は豪農であり、藍玉の製造販売も担っていたため、14歳のときからは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになりました。24歳のときに尊王攘夷の思想に目覚め、京都に上った栄一でしたが、勤皇派の勢いが当時衰えており、知人の口添えで一橋(徳川)慶喜に仕えることになり、慶喜が将軍になると、栄一は幕臣となりました。
慶応3(1867)年、フランスで万国博覧会が行われ、栄一は幕府から派遣される一行に加えられました。幕府は、パリ万博への参加・出品と同時に、薩摩や長州に対抗して軍備を増強するためにフランスの銀行から600万ドルの借金を目論んでいました。その交渉役として、経済面に明るい栄一が一行に加えられたのです。しかし、その最中に幕府は倒れ、その計画も白紙になりました。その間、栄一はフランスで銀行家のもとにおもむき、フランスの経済機構、銀行、取引所、公債、社債などについての知識を深めていました。このことが、後に役立つことになります。
維新後の明治2(1869)年、新政府の大隈重信に声を掛けられ、渋沢は大蔵省租税正(そぜいのかみ)に就任します。経済機構の改革につぎつぎと手腕を発揮し、洋式製糸工場建設や、当時はまだ確立されていなかった銀行制度を示した「国立銀行条例」の制定にも携わりました。数年後には第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任しました。第一国立銀行は、たくさんの人が集まり、資金を出し合って経営するという、今では当たり前となった株式会社の第一号でもありました。また、株式を扱う東京株式取引所を創始したのも渋沢でした。
渋沢は、三井・三菱のように「渋沢財閥」をつくることはありませんでした。彼の信念は、「私の事業のために奔走するのは、一念国家の利益を図るにある」ということにありました。渋沢は、何よりも国家の独立と隆昌を第一義とする経済人でした。
渋沢の経済観念の根本は、道徳と経済の一致であり、富をなす根源は仁義道徳にあるとし、営利の追求、資本の蓄積は道義に合致すべきと考えました。また、彼は「士魂商才」を唱え、実業道は同時に武士道でなければならないと思っていました。渋沢はこうした精神をもって経済界の最高指導者、司令塔として大きな影響と感化を及ぼしました。
明治天皇がおかくれになった後、渋沢ら経済人は東京の真ん中に神社を建立し、明治天皇をお祀りしようという案を考えました。さっそく時の総理大臣であった西園寺公望、元老の井上馨、山縣有朋のもとを訪れて話したところ、いずれの人物もその主意に賛成し、具体的に話が進みました。また、東京以外の各地方も候補地に多数名乗りを上げ、東京の中でも多数の場所が候補として上げられました。最終的には、明治天皇の御製にもあった、代々木の地に決まりました。それが現在の明治神宮です。
建立のための募金受付が始まると、当時の国民は競うようにして寄進しました。収入のない小学生でさえ、十数名が山で拾い集めた栗を売って献金に充てるなど、明治天皇がどれほど慕われていたかが分かります。募金が締め切られると、次に献木が始まりましたが、その際も遠方の北海道や九州から寄進されたという話が残っています。さらに、工事への労力奉仕も盛んに行われ、内苑工事に208団体・のべ10万2800名、外苑工事に118団体・のべ4万3780名が郷土の名誉をかけ奉仕したそうです。
大正5(1916)年、77歳で財界を引退した渋沢は、亡くなるまでの15年間、公共社会事業に余生を捧げ、関係した事業は約600におよぶと言われます。渋沢栄一ほど世のため人のため恵まれぬ人々のために尽くした財界人はありませんでした。東京・丸の内界隈には、今も日本の経済を見守っているかのように、渋沢栄一の銅像が建てられています。