今回は、明治新政府の中心として活躍し、初代の内閣総理大臣となった伊藤博文を紹介します。
伊藤博文は、天保12(1841)年9月2日、百姓であった林十蔵の長男として生まれ、小さいころの名前は利助でした。13歳の頃まで、武士の家の下働きをしていましたが、その主人である伊藤直右衛門が、親子3人を伊藤家の養子とすることになり、伊藤利助として生活するようになります。利助は武家の家に奉公に出て、働きながら勉強に励んでいました。ある日、用事を命ぜられた利助が、吹雪に耐えかねて我が家に立ち寄ったところ、母の琴子から「ご主人のご用の最中なら、まずりっぱに責任を果たしなさい。ご用の途中で家に立ち寄るような弱い心でどうするのか!」と厳しくしかられ、一歩も家に入れてもらえなかったそうです。
利助は安政5(1858)年、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門します。同じく塾生であった高杉晋作からかわいがられ、そのころに俊輔という名を名乗るようになりました。しかしその年、吉田松陰は大老井伊直弼の安政の大獄で死罪となります。松陰先生門下であった高杉晋作や桂小五郎、俊輔らは幕府を倒すことを決意しました。
俊輔は文久3(1863)年、イギリスへ留学しますが、産業革命後の巨大な工場、進んだ機械、高い建物が立ち並ぶロンドンを見て、俊輔を含む5人は、日本を近代国家にするにはどうすればいいか、欧米列強の支配を受けずに繁栄するにはどんな方法があるかを必死に学びました。そんな中、日本ではイギリス、フランス、アメリカ、オランダによる長州藩への砲撃が準備されていました。それを知った俊輔と井上聞多(後の井上馨)は、外国艦隊への砲撃をやめるよう、急いで帰国し説得します。そんな中で四国艦隊の砲撃が始まり、長州の砲台は次々に破壊されました。和平交渉には高杉晋作と俊輔が代表として赴き、何とか領土を守ることができました。この頃から、いかに国益を守り抜くかという厳しい場面をくぐり抜けてきました。当時、俊輔は23歳でした。
明治の時代に入ると、俊輔は外国事務係に任命され、その後は明治国家の新しいしくみのトップとして就任することが多くなりました。この頃から、名前を博文とするようになります。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允のいわゆる「維新の三傑」亡き後、博文に明治政府の未来が任されるようになっていきます。
明治17(1884)年12月、伊藤博文は最初の内閣総理大臣となります。近代国家として立憲政治を始めるための制度の改善が伊藤を中心に行われ、実際に憲法をつくるためにも奔走します。明治15(1882)年3月から1年半、ドイツ、オーストリアに渡り、グナイストとシュタインという憲法学者から教えを受けました。そして帰国後、神奈川県夏島(現在の横須賀市)の別荘で、大日本帝国憲法(明治憲法)を井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、明治政府の法律顧問であったロエスレルと泊まり込みで検討し、仕上げました。憲法が発布されたのは、明治22(1989)年2月11日でした。この日、東京は憲法発布の祝典でお祭り騒ぎだったそうです。この憲法は、東洋で初めての近代的な憲法でした。翌年には第1回帝国議会が開かれ、憲法のもとに新しい日本の政治が始まりました。
伊藤博文は、4度内閣総理大臣となり、国家のかじ取りを行いました。また、日露戦争後、初代の韓国(大韓帝国)統監として朝鮮半島におけるさまざまな事業の指導に当たりました。「自分ならヨーロッパ人のアジア支配とは異なる保護国との関係を築いてみせる」という気持ちで統監に就任したそうです。しかし、そんな伊藤の思いは残念ながら通じませんでした。明治42(1908)年10月26日、ハルピン駅で韓国人の暗殺者の銃弾に倒れました。発砲したのが韓国人であったことを聞くと、「ばかなやつじゃ」と言い残し、息を引き取りました。伊藤の言葉通り、伊藤の亡き後に韓国併合への動きが早まっていきました。
百姓の長男として生まれた伊藤博文は、最終的に国家を動かす立場になりました。そこまでの人物になったのは、両親の教え、松陰先生との出会い、長州の同志との絆、そして「日本のために」という思いがあったからではないでしょうか。