日本史偉人伝

井上 毅(こわし)

2016.07.15

今回は、明治憲法(大日本帝国憲法)を制定するうえで重要な役割を果たした、井上毅を紹介します。

井上毅は、天保14(1844)年12月18日、熊本藩の下級武士の家に三男として生まれました。4歳にして『百人一首』を全部覚え、「神童」と呼ばれました。体はあまり丈夫ではありませんでしたが、本が大好きな子供で、「お母さんのご飯炊きを手伝う」といい、辺りがまだ暗いうちからかまどでご飯を炊いたそうです。その理由は、かまどの火の明かりで本が読めるからでした。それほどに本が大好きでした。

やがて、井上は私塾・必由堂で学ぶことになりますが、そこで「四書五経」を徹底的に学び、さらに14歳になると、藩お抱えの儒者・木下犀潭(さいたん)のもとで朱子学を徹底的に学びました。そこでも抜群の成績を残した井上は、木下の推薦で藩校・時習館の居寮生に抜擢されました。これは当時でも非常に希なことでした。20歳の時には、熊本の儒学の大先輩・横井小楠とも論を戦わせ、一歩も引かずに自論を展開しました。

明治初年からはフランス語を習い、明治4(1871)年、司法省に勤めました。翌年渡仏してパリで本格的に法学を研究し、その後ベルリンへ赴きました。プロイセン憲法の内容をわが国に初めて紹介したのはその時でした。明治9(1876)年には法制局に入って諸外国の法制の調査に当たり、岩倉具視や伊藤の下で各種の意見書の起草を行うようになりました。

憲法調査のため伊藤が欧州に派遣されている間、井上は国内で憲法研究を続けました。『古事記』や『日本書紀』などの歴史書はもちろん、朝廷の神事・儀式・慣例などを記した書物、官職の沿革記録などをつぎつぎと読破していった井上の研究量は膨大でした。古典の研究を続ける中で井上は、わが国の憲法は、欧州諸国の憲法の翻訳であってはならないのであって、国の伝統に根差した独自のものであるべきとの強い信念を持つに至りました。

この古典研究の中で、井上はあることを突き止めました。『古事記』にある「しらす(しろしめす)」という言葉に込められた重要な意味でした。もう一つ、「うしはく」という言葉も出てきますが、どう違うのかという疑問を井上は抱き、調べてみました。すると、天照大神や歴代天皇に関わるところでは、すべて「治める」という意味で「しらす」という言葉が使われ、大国主神をはじめとする一般の豪族たちのところで「うしはく」という言葉が同様な意味で厳密に使い分けられていました。井上の説明によれば、「うしはく」は西洋で「支配する」という意味で使われている言葉と同じですが、「しらす」は「知る」を語源としている言葉であり、天皇がまず国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すようにわが心に写し取って、それと自己を同一化させ、自らを無にして治めようとされる意味であるということです。井上は、この「しらす」の理念こそ国体の本質であると考え、憲法案の起草に着手しました。井上は明治憲法第一条を「日本帝国ハ萬(ばん)世(せい)一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」としましたが、伊藤博文から異論が出され、最終的には「大日本帝国ハ萬(ばん)世(せい)一系ノ天皇之(こ)レヲ統治ス」と改められました。しかし、井上は憲法の解説書の中で、この「統治ス」は「しらす」の意味であるとはっきり書いています。

また、井上の草案には、ヨーロッパ諸王国の憲法に必ず規定されていた「帝王は神聖不可侵」の条項がありませんでした。天皇の神聖不可侵は鉄則であって、憲法の一条項に定めることで初めて確定するというようなものではない、という井上は考えたのでした。

明治憲法完成後、井上は次のような歌を詠みました。

「外(と)つ国の 千種(ちぐさ)の糸をかせぎあげて 大和錦に織りなさばやな」

様々な国の憲法の良い点を取り入れながらも、日本独自の憲法を作り上げた井上の自負心がこの歌に込められているような気がします。憲法改正論議が盛んになり始めた今日ですが、日本人が作り上げた憲法こそが、日本にとってふさわしい憲法ではないでしょうか。


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