今回紹介するのは、前回取り上げた秋山好古の弟であり、小説『坂の上の雲』でも描かれた、秋山真之です。
秋山真之は、慶応4(1868)年3月20日、松山藩士秋山久敬、貞子の五男として生まれ、はじめは淳五郎と名づけられました。出生時、兄の好古が、両親に訴え、真之が寺へ預けられることをまぬがれたのは前回紹介したとおりです。幼少期は悪さをし、14歳の頃、近所の野原で調合法を見ながら作った花火を打ち上げました。巡査に見つかってもしらをきった真之に、母の貞子は短刀を手に、「母さんもこれで死ぬけん、お前もお死に。」と迫りました。母の気迫に負けた真之は、手をついて謝ったそうです。
小学校から、真之は後に俳人となる正岡子規と親しい友人でした。子規の上京に伴い、真之も上京し、最初は兄・好古のもとで生活を送っていました。二人とも明治17(1884)年、大学予備門(後の東京大学教養学部)を受験し、合格。同級生には夏目漱石らもいました。
真之は帝国大学を目指して勉強をしていましたが、兄の好古に「いつまでも面倒を見てもらっているわけにはいかない」という思いがありました。自立して勉強をするには、学費のかからない学校を探すほかありませんが、選択肢は、兄の通った陸軍士官学校、海軍兵学校、師範学校の三つでした。そこで、好古に相談し、海軍兵学校を受験し、合格しました。真之の海軍軍人としてのスタートは明治19(1886)年でした。
入学した海軍兵学校を主席で卒業した真之は、明治27(1894)年に勃発した日清戦争で、通報艦「筑紫」に航海士として乗艦しました。黄海海戦後、真之は日本側の細部の艦の動きに目をつけ、「勝利したものの完勝ではなかった」と知人への手紙に書いています。後に参謀として、世界的にも有名になる日本海海戦を指揮する役割になることを悟っていたのでしょうか。
真之は日清戦争後、アメリカ留学、イギリス駐在、海軍大学校の戦術教官を経て、連合艦隊の参謀として、東郷平八郎司令長官と同じ戦艦「三笠」に乗り組むこととなりました。日露戦争開戦後、真之は連合艦隊の先任参謀となり、中佐に昇進しました。真之の大きな仕事は、ロシアが誇る世界最強と呼ばれたバルチック艦隊を撃滅させることでした。そのために真之は、済州島付近からウラジオストクまでのあいだを七つに区分した「七段構え」の戦法を考案しました。
明治38(1905)年5月27日、バルチック艦隊が読みどおりに対馬海峡に現れ、真之は有名な電文を大本営宛に送ります。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。」特にこの電文には、「予想通りバルチック艦隊が対馬海峡に来たし、天気も良い。波は高いが、連合艦隊の砲兵は荒い洋上で三ヶ月間も訓練しているから、負けない、絶対に勝つ」という真之の思いが込められていました。
東郷平八郎の午後1時50分過ぎの戦闘開始命令後、バルチック艦隊の旗艦「スワロフ」が初砲を放ち、日本海海戦は始まりました。午後2時10分の射撃開始命令から約30分足らずで、バルチック艦隊の各艦は火災を起こし、形勢はほぼ決まりました。真之も、「実に皇国の興廃は此(こ)の三十分間の決戦に由(よ)って定まりしなり」と後に語っています。翌日にかけての夜襲で、バルチック艦隊は壊滅寸前になり、降伏しました。東郷の命令で真之は軍使として敵艦に赴き、その後、降伏会見が持たれました。日本海海戦の勝利により、有利な条件で講和を進めることが可能になったのです。
後に真之は海軍中将まで進み、大正7(1918)年、出張先の小田原で持病が悪化し、2月4日の午前6時ごろに息を引き取りました。最後に、今月卒業する皆さんへ、真之が起草したといわれる「連合艦隊解散の辞」の最後の一説を紹介します。「古人曰(いわ)く、勝って兜(かぶと)の緒を締めよ、と。」卒業後の皆さんの活躍に期待します。