乃木 希典(のぎ まれすけ)
前回、日露戦争が勃発した当時の総理大臣、桂太郎を紹介しました。今回から数回にわたり、その日露戦争を戦い抜いた人物を取り上げたいと思います。今回紹介するのは、当時の陸軍第三軍指令官であった、乃木希典です。
乃木希典は、嘉永2(1849)年11月11日、毛利藩士乃木希次の三男として江戸の藩邸に生まれました。幼い頃から厳しいしつけを受けて育ちました。希典は、元治元(1864)年、学問で身を立てたいと、親戚であり吉田松陰の叔父に当たる玉木文之進について学びたいと家出までしますが、玉木は父母に背き家出したことを「武士にあるまじき行為」と叱りつけ、入門を許しませんでした。希典は玉木家でしばらく畑仕事を手伝い、翌年には玉木より正式に入門を許されました。この頃には剣術にも励み、一流の腕前に達しました。
乃木希典の初陣は、慶応2(1866)年の四境戦争(第二次長州征伐)でした。小倉方面の指揮官であった高杉晋作から小隊長に抜擢された乃木は、重要な小倉口の戦いで、小倉城一番乗りを成し遂げました。
乃木が29歳の時、試練が訪れます。西南戦争で第14連隊長として熊本で戦った際、明治天皇から授かった連隊旗を、部下の不注意とはいえ、薩摩軍に奪われてしまいます。そのことは、生涯乃木の心に引っ掛かることになります。さらに、木葉の戦いの際に落馬し、あわや命まで落としそうになりました。しかし、官軍の援軍が来るまで持ちこたえ、有名な田原坂の戦いでも活躍し、勝利へと導きました。西南戦争後、乃木は連隊旗を失った責任を取り、切腹しようとしますが、親友でもある児玉源太郎に諌められ、何とか思いとどまりました。
乃木希典の功績が讃えられたのは、何と言っても日露戦争での旅順攻略戦での奮戦でした。戦後、小説「坂の上の雲」などの影響もあり、「乃木は戦下手」という印象が強くなっていますが、決してそうではありません。旅順にはロシアによって、「いかなる敵を引き受けても断じて3年は支えることができる」という要塞が築かれていました。そのことを、作戦を立案する参謀本部は把握していませんでした。乃木は、その要塞を半年で攻略に成功したのです。弾薬等の物資は決して十分ではなく、日本側に多くの犠牲者も出しました。予想に反する苦戦に、指揮官を交代すべしとの世論もあり、当時の参謀総長、山県有朋も明治天皇に伺いを立てます。すると明治天皇は「乃木をかえたら、乃木は生きてはおらぬぞ」と仰せられました。明治天皇の乃木へのご信任はゆるがないものだったのです。
旅順戦の後、ロシア側の司令官ステッセル中将との会見が水師営で行われました、その会見は、明治天皇の「武人として尊重するように」とのご意向に沿い、降伏したステッセルにも帯剣が許されたものでした。新聞記者から会見場面を撮影したいとの申し入れがありましたが、乃木はこれを許さず、一枚の記念撮影だけ認めました。その写真は世界へ伝わり、武士道精神に基づく乃木の振る舞いが世界中へ感銘を与えました。
凱旋後、明治天皇は、乃木を学習院の院長に任命しました。2人の息子も日露戦争に従軍し、ともに戦死していた乃木への、「沢山の子供を授けよう」という明治天皇のお気持ちでした。また、学習院に進まれる裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育を乃木に任せたいというお考えもありました。晩年、昭和天皇は「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」と言われたそうです。
明治天皇が崩御あそばされた明治45(1911)年9月13日、ご遺体を乗せた車が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後8時過ぎ、乃木希典は古式に則り切腹し自決を遂げました。妻の静子も行をともにしました。遺言の最初に書かれた自決の理由は、西南戦争で軍旗を奪われた責任を取るというものでした。9月18日に行われた葬儀で乃木夫妻を見送ろうと沿道に集まった人の多さは、東京開市以来といわれています。
乃木希典こそ、明治の時代を生き抜いた武士ではないでしょうか。現代の小学校・中学校の教科書にはなかなか掲載されていませんが、乃木希典の生き方を、ぜひ多くの現代人に知ってもらいたいと思います。