日本史偉人伝

桂 太郎

2015.06.19

今から100年以上前の明治37(1904)年、ロシアとの間に日露戦争が勃発しました。当時、多くの国は、「小さい国の日本が大国ロシアに勝てるはずがない」と考えていました。結果は日本が勝利し、多くのアジアの国々に勇気を与えました。その日露戦争開戦時の首相であった桂太郎について、今回は紹介します。

 

桂太郎は、弘化4(1848)年11月28日、長門国(現在の山口県)に生まれました。桂家の先祖には、鎌倉幕府の政所別当・大江広元がいます。少年時代には叔父の中谷正(しょう)亮(すけ)の教えを受けましたが、この中谷は、吉田松陰の亡き後、松下村塾を継承し、その運営に携わった人物でした。桂は中谷から、文明開化による国家の独立達成の大切さを教えられました。

長州藩が攘夷を実行し、報復を受けた文久3(1863)年、高杉晋作の「奇兵隊」に代表される民兵組織が次々に誕生する中、桂が発起人の一人に名を連ねた「大組隊」が結成されます。当時、桂はまだ17歳でした。上級武士の家に生まれた身として、何もせずにいるだけではいられなかったのでしょう。桂は戊辰戦争にも参加していますが、東北の平定に向かった際、全滅の危機に直面します。その際、軍事ではなく「政治的な動き」によって難を逃れました。戊辰戦争で桂は、最新の近代軍事技術を学ぶ必要性を痛感するとともに、政治や外交、情報活動の重要性に目覚めました。

明治2(1869)年、桂は大村益次郎のアドバイスにより、ドイツへの留学を決意します。しかし、私費での留学となり、さらには兵学寮(士官養成所)を退学する必要がありました。同郷の先輩たちにも諫められましたが、桂は強い意志を持ってドイツへ向かいました。さらに明治8(1875)年には、官の立場で留学を果たします。帰国した桂に与えられたのは、作戦指揮を管轄する「参謀本部」を設立することでした。また、桂は戊辰戦争の経験から情報収集も重要視しました。

明治27(1894)年から始まった日清戦争では、桂は第三師団長として奮闘しました。桂が中心となり、ドイツ式の近代軍制を取り入れた成果でした。その後、大病を患いますが、無事回復へと向かいます。その後に待っていたのは、冒頭に書いたロシアの存在でした。

桂は、明治34(1901)年に首相に推され、翌年には日英同盟を結びます。そして明治37(1904)年、日露戦争が始まりました。桂が最も苦労したことは、巨額の軍費をどうするかという問題でした。桂は、日本銀行副総裁の高橋是清を米英に派遣し、外国債の募集に当たらせました。同時に、高橋の活動がうまくいくよう、伊藤博文らの協力を得て、各方面へ必死の働き掛けを行っていました。また、立憲国家の日本では、戦時中でも様々なことを決定するためには議会の承認が必要でした。そのために桂は、衆議院第一党の政友会に働きかけを行い、協力を取り付けることができました。日露戦争の戦いの裏には、桂太郎のこのような取り組みがあったのです。

日露戦争後に政権を譲った後、桂は明治41(1908)年に第二次桂内閣、大正元(1912)年に第三次桂内閣を組閣します。第三次桂内閣では、イギリス流の議会政治に詳しい加藤高明を外務大臣に抜擢しました。その真の目的は、新党の「立憲同志会」を結成し、二大政党制を実現させることでした。しかし、「大正政変」により、この内閣は退陣を余儀なくされます。その8ヵ月後、桂太郎は67歳でこの世を去りました。

 

桂の亡き後、立憲同志会は立憲民政党と名を替え、立憲政友会と並ぶ昭和戦前期の二大政党の一つとなりました。時間はかかったにせよ、桂の思いは実現したのです。桂の得意としたことは、敵対する勢力がいても自らニコニコしながら近づき、相手の肩をポンと叩いて対立感情を和らげる、いわゆる「ニコポン」でした。しかしこれができたからこそ、国の行方を左右する難しい時期を何とか乗り切ったのではないかと思うのです。


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