今回は、現在の五千円札に肖像が描かれている、明治時代の女流作家、樋口一葉について皆さんに知ってもらおうと思います。
一葉の本名は奈津といい、明治5(1872)年に、父・則義と母・たきの次女として東京で生まれました。幼少のころから読書が好きで、草双紙(絵入りの娯楽本)の類を読み、7歳にして滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと言います。蔵の中で本を読みふけり、目を悪くしたほどの本好きでした。明治10(1877)年に5歳で私立吉川学校へ入学し、明治14(1881)年には私立青海学校へ転校し、高等科第四級を主席で卒業しますが、それより先の進学はできませんでした。しかし、父の勧めで14歳のときに歌塾「萩の舎」へ入門します。そこには、貴族や良家の子女が多く集まっていましたが、負けじと存在感を示しました。
そんな中、一葉が16歳の時に兄が病死し、さらに2年後には父も亡くなりました。その後、一葉は一家の中心となり母や妹の生活を支えます。その生活の中で小説家を志しますが、なかなか世に出せるような作品は書けず、期待するほどのお金にはなりませんでした。そこで、妹の邦子と決断し、家庭用品や駄菓子を売る荒物屋を開業しますが、その店も10ヶ月でたたんでしまいました。しかし、その10ヶ月間に目にした、子供たちや大人の開けっ広げな生活を目にし、その後の作品に繋がっていきます。
その作品は、明治29(1896)年に『文芸倶楽部』に発表された『たけくらべ』という作品でした。思春期にあって、将来進む道が決められた少年と少女の気持ちを描いた小説は、幸田露伴や森鴎外らからも高い評価を受けました。
一葉は、15歳のときから日記をつけていました。その中に、国民の一人として国を憂える気持ちが表れた部分があります。明治26(1893)年、21歳の時の日記です。
「印度、埃及の前例をきゝても、身うちふるひ、たましひ(魂)わなゝかるゝを、いで、よしや物好きの名にたちて、のちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終わらむやは」(イギリスの植民地になっていたインドやエジプトのことを思うと、体は震え、心がわななくようだ。物好きな女と噂され、後の世の人からあざけりを受けても、このような時代にうまれ合せた者として、国のため、何もしないで一生を終わっていいだろうか。)
この日記が書かれた前の年、軍艦千島が瀬戸内海でイギリスの汽船とぶつかって沈没し、乗員70人余りが溺れ死ぬという「千島艦事件」がありました。この当時、日本は開国時に西洋諸国に認めた治外法権のため、日本で罪を犯した外国人を日本の裁判所で裁くことができませんでした。この翌年に、ようやく治外法権が撤廃されています。また、先ほどの日記の最後には、歌が詠まれていました。
「吹きかへす 秋のゝ風に をみなへし ひとりはもれぬ ものにぞ有ける」
これは、秋の野風が吹きすさぶ中、つまり東アジアをロシアやイギリスが狙っている緊迫した国際情勢下にあって、女性(女郎花)だからといって、この局面をただ見ているわけにはいかないという意味が込められています。
樋口一葉は、『たけくらべ』などの名作を次々に発表して注目を集めた矢先の明治29(1896)年11月23日、肺結核に倒れ、24年の短い生涯を終えました。苦しい生活を送る中でも世の中の動きや国の将来を案じたのは、未来に生きる日本人に期待したからこその思いではないでしょうか