突然ですが、皆さんに質問です。現在、五千円札の肖像画には樋口一葉が描かれていますが、その前の五千円札には誰が描かれていたでしょうか?…正解は、今回紹介する、新渡戸稲造です。
新渡戸稲造は、文久2(1862)年、現在の岩手県盛岡市に生まれました。新渡戸家は開拓事業を営んでおり、開拓地で初めて取れた稲にちなんで名づけられたそうです。10歳で英語の勉強を始めた稲造は、13歳で東京英語学校に進み、英語だけでなく、英文学も学びました。15歳になると札幌農学校(現在の北海道大学)で学びますが、ほとんどの教授が外国人で、授業も英語で行われていました。そんな中、英語に関しては稲造は常にトップの成績を保っていました。
明治14(1881)年、札幌農学校を卒業した稲造は、翌年、さらに勉学を究めようと東京帝国大学(現在の東京大学)へ入学するために上京します。入学試験の口頭試問を担当したのは、文学部長の外山正一教授でした。「貴君は何をやりたいのですか」との問いに、稲造は、農政学を専門としたいが、英文学も大学で学びたいと答えました。さらに、「英文学を学んでどうするのですか」と聞かれ、稲造ははっきりとこう答えました。「太平洋の橋になりたいと思います。」日本の思想を外国に伝え、外国の思想を日本に普及させる役割を担いたいというのが、稲造の思いでした。外山教授は感心し、こうして入学は許可されました。このように、稲造は、若くして人生の目標をはっきりと見据えていました。
今なお、欧米の政治家が日本で演説するたびに引用するのは、稲造のこの言葉です。
“I want to become a bridge across the Pacific.”(願わくば、われ太平洋の橋とならん)
明治22(1889)年頃、ベルギー人法学者のラヴレー博士と話し、話題が宗教の話になった際、稲造は、「あなたのお国の学校には宗教教育がない、とおっしゃるのですか」と質問されました。稲造が「ありません」と答えると、ラヴレー氏は驚いて歩みを止め、「宗教なし!どうやって道徳教育を授けるのですか!」と言いました。稲造は、その質問に即答することができませんでした。考え抜いた稲造がたどり着いた結論は、「武士道」でした。そこで稲造は、明治33(1900)年、世界に向け英文で「BUSHIDO(武士道)」を記し、出版しました。現在も読まれている本であり、日本語訳したものも、書店で販売されています。
稲造は、大正9(1920)年5月、国際連盟事務局事務次長に就任します。日本人で初めて、国際機関の主要ポストに就任しました。「太平洋の橋」を目指す中の、一つの到達点でした。
昭和8(1933)年10月15日、稲造はカナダのビクトリア市で息を引き取りました。その2ヶ月前までアメリカとの関係修復に向け取り組んでいた中でのことでした。
今はほぼ目にすることのない、新渡戸稲造の肖像画が入った旧五千円札ですが、「五千円」と印刷された下には地球が描かれています。これについて、旧五千円札のデザインを担当した斎藤栄嗣氏が、新聞の取材にこう答えています。「みなさん、なんで地球が紙幣の中に、と思われたかもしれませんが、私は太平洋を描いたつもりなんです」斎藤氏は、このデザインのために稲造の生地・盛岡を旅し、人物像を研究したそうです。「太平洋の橋とならん」という新渡戸稲造の志は、紙幣の中にも見事に表現されていたのです。