日本史偉人伝

池田 菊苗

2014.11.29

現在、食卓には欠かせない存在となっている、「味の素」などのうま味調味料。スナック菓子などの原材料欄にもよく記載されています。世界中で使われているこの調味料の成分を発見した人物が、本日紹介する池田菊苗です。

池田は元治元(1864)年、薩摩藩士の子供として京都で生まれました。幼いときから勉強が好きで、9歳の頃から英語や漢文を学び、16歳の頃には、大阪の造幣局のお雇い外国人が英語で書いた本で化学を学び、自宅で実験に取り組むほどでした。

池田は明治18(1885)年に、東京大学理学部化学科に進み、卒業後は化学科の教授をつとめ、明治32(1899)年には当時の物理化学のメッカであったドイツに留学しました。物理化学は、化学反応や電気分解とイオンなどを扱う分野で、当時は染料やソーダ(石鹸、ガラスなどの原料)等、生活に必要な物資を人工的に作り出す方法を研究していました。これは日本に化学工業を興すために必要な学問だったため、池田の任務は重大でした。池田は帰国後、ドイツで研究した成果を著作と講義を通して精力的に伝えました。日本の化学工業は明治40年代から発達の兆しが見えますが、その土台にあったものは池田の研究と教育活動でした。

ドイツからの帰途、池田がロンドンに滞在した際は、文豪・夏目漱石と同じ下宿に住んでいました。漱石は池田のことを「博学で見識が高く、立派な品性のある人」と日記に書き残しています。二人は意気投合して哲学や文学、科学、人生等について夜を徹して議論したそうです。また、この頃の漱石は、異国の地にあってひどいノイローゼにかかっていました。その時期に、池田の人柄と学識に触れて心が慰められ、新しい文学研究への指針と希望を与えられたと回想しています。

うま味調味料の発明は、池田が帰国した後のことでした。当時の化学界では、物質の味は甘味、酸味、苦味、塩味の四味とされていました。池田は、「肉や魚、昆布や鰹節のだしをわれわれは『うまい』と感じるのだから、『うま味』があるに違いない」と着想し、研究に着手しました。研究の対象は、浸出液の組成が比較的簡単であること、和食主体の当時の食事に昆布が調味料として毎日使用されたこと、池田本人が京都の出身で、幼少の頃から昆布のだしに興味を持っていたことなどの理由から昆布を選びました。そしてついに、明治40(1907)年、大量の昆布を煮出し、10貫目(約38kg)の昆布から約30gの「うま味」を生じる物質、「L-グルタミン酸ナトリウム」を得ることに成功しました。

池田はその翌年の4月24日、「グルタミン酸を主成分とする調味料製造法」に関する特許を出願し、7月25日に特許登録されました。この発明は,「日本の十大発明」の一つとして現在位置づけられています。また、当時ヨードの販売をしていた鈴木三郎助の協力を得て、これを商品化しました。これが今日の「味の素」です。化学研究の成果を何とか工業化し、日本人の栄養を向上させようと考えていた、池田の夢が叶った瞬間でした。今日では、うま味は「UMAMI」という用語で国際的に認知されています。

池田がこの発明を手がけるきっかけには、理学者の就職難がありました。当時の企業は化学工業を含め、全てにおいて海外からの技術導入に頼っていました。そのため、新技術の開発はおろか、その改良・向上に役立つ技術者は企業には不要だったのです。池田は発明の前に、「余は機会あらば自ら応用方面に於いて成績を挙げ純正化学者が工業上より見て無用の長物に非(あら)ざることを例示せんと窃(ひそか)に企図(きと)し居たり」と、化学者としてのプライドを持ってこの発明に取り組みました。現在、日本の工業製品が世界で信用される背景には、このような研究者の心意気があったのです。

昭和11(1936)年、グルタミン酸ナトリウムの結晶を製造する方法が完成しました。「味の素」をテーブルに並べることが可能になったことを見届けるように、同年5月3日、化学者・池田菊苗は息を引きとりました。


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