今回は、福岡県出身で、昭和初期に主に外交面で活躍した、元総理大臣の広田弘毅を紹介します。
広田弘毅は、明治11(1878)年2月14日、福岡市で石屋の長男として生まれました。非常に達筆で、福岡市内にある水鏡天満宮の鳥居の額は広田が書いたものということですが、なんと11歳の時の書だそうです。広田は県立の修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)に進み、柔道に打ち込みました。広田が柔道をした道場は、福岡の政治結社であった「玄洋社」が経営したもので、その影響を後に受けることになります。
明治28(1895)年、日本は日清戦争後に下関条約を結びますが、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉で、一度は手にした遼東半島を返還せざるを得なくなります。広田は「戦争に勝っても外交に負けては、血の犠牲も無駄になってしまう」と、その時外交官になろうと決心し、東京の第一高等学校に進学しました。その後、東京帝国大学(後の東京大学)に進み、卒業した翌年には外務省に採用されて外交官となりました。大使や公使を務めた国は、清、イギリス、アメリカ、オランダ、ソ連などの主要な国々でした。
広田は、中学時代に禅の修業をしたこともあり、名誉や財産のような俗世の欲得には淡白で、自然のままの生き方に徹していました。駐ソ連大使を最後に、しばらく神奈川県の鵠沼で過ごします。
昭和8(1933)年、退職間近の広田は外務大臣に任命されました。以来、広田は、諸外国との関係改善を目指す「協和外交」を推し進めます。昭和10(1935)年の国会では「私の在任中に戦争は断じてない」と言い切りました。そして、翌年に起こった二・二六事件の後、広田は首相に就任しました。これを歓迎し、当時在日アメリカ大使であったグルーは「私は大いに喜んでいる。広田は強く安全な人間である。」と日記に書いています。しかし、閣内で意見の一致ができず、翌年1月に総辞職することになりました。その後、近衛文麿内閣の外務大臣として再度迎えられ、その年の7月に起こった盧溝橋事件に端を発する支那事変(日中戦争)の収束に向けて奔走しますが、中国側の度重なる挑発によって失敗しました。翌年の5月に辞任した広田は二度と入閣することはありませんでした。
終戦後、広田は極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯として逮捕されます。取り調べた検事は、「他の者を丹念に調べたが、この大戦を起こしたと見られる者はいない。おそらく君が黒幕となってみんなを操っていたのだろう」と尋ねたそうです。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、「日本は軍・文官一体で世界征服の『共同謀議』をした」というストーリーを作り、その犯人として仕立てられたのが広田だったのです。判事団の評決では、6対5のわずか一票差で死刑が決定しました。オランダ代表の判事であったレーリンクは、意見書に「文官政府は軍部に対しほとんど無力であった」ことを認め、「その限られた枠の中で広田は十分な努力をした。すべての起訴事実について広田は無罪である。」と書きました。しかし、広田は「私には戦争を止められなかった責任がある」と考え、裁判中、証言台で自己弁護することは一度もありませんでした。裁判の開廷前、弁護人から、手続き上の説明で「裁判長から、有罪を主張するか、無罪を主張するかと聞きますので、必ず『無罪』と答えて下さい。」と説明されても「いえ、私は有罪です。私には戦争の責任があるのです。どうしても言わなければならないなら、すみませんがあなたが言ってくれませんか?」と言い、弁護人を困らせました。最後まで中途半端な言い訳じみたものはありませんでした。
死刑判決の出た翌日から、GHQの占領下にもかかわらず、広田の減刑嘆願のための署名運動が始まり、最終的に東京で3万人、郷里の福岡で7万人を超える署名が集まり、10万を超えるものとなりました。それでも広田は嘆願書を出さないよう家族に伝えたといいます。これだけの数の署名が集まったのは、文官として戦争の責任を背負い、この世を去ることになった広田に、日本の国民も尊敬の念を持っていたためではないでしょうか。