今回は、明治時代に活躍した大久保利通の次男で、麻生太郎元首相の曾祖父にも当たり、昭和天皇の側近でもあった牧野伸顕を紹介します。
牧野伸顕は、文久元(1861)年10月22日、鹿児島城下に生まれ、幼名を伸熊といいました。生後間もなく大久保利通の従姉妹の嫁ぎ先である牧野家に入籍し、牧野家を継ぐことになりました。明治4(1871)年11月、伸熊は岩倉使節団の留学生として、長男の利和や津田塾大学創始者の津田梅子らとともにアメリカに渡りました。帰国後、東京大学の前身である開成学校に入学し、明治12(1879)年から外務省に出仕しました。翌年にはイギリスに渡り、ロンドンの日本公使館に勤務することとなり、ここから本格的に外交官としての道を歩み始めました。日露戦争の際はオーストリア=ハンガリー公使として、ヨーロッパの情勢を日本に伝えたり、各国に向けた広報外交を行うなど精力的に活動しました。
牧野が携わった中で特に大きな仕事は、大正8(1919)年に開かれた、第一次世界大戦の講和会議である「パリ講和会議」での提案でした。当時のアメリカの大統領ウィルソンの意見で、国際連盟がつくられ、パリ講和会議の中で、国際連盟の規約について話し合われることになりました。牧野は、ここでとても重要な提案を行います。「人種差別をやめよう」という『人種平等案』を規約に盛り込むという提案です。この頃、アメリカに移民した日本人が白人労働者の反感を買い、排日運動が起こっていました。その原因は、日本人が持ち前の勤勉さで良く働き、白人労働者が一日2ドルで行った仕事を日本人は一日0.5ドルで、しかも白人よりも立派にこなしていたということがきっかけです。それでも雇い主は日本人にそれ以上の賃金を払おうとはしませんでした。さらに日本人は、仕事を取られたという白人に石をぶつけられるなど、様々な迫害を受けました。あまりに理不尽な理由でした。人種差別で苦しんでいた黒人をはじめとする有色人種の人々も日本のこの提案に期待していました。
いくつかの白人国家はこの提案に強く反対しました。そこで牧野たちは粘り強く交渉を進め、新しく修正案を提出しました。その意見陳述で、牧野は「今ふたたびこの問題を提起するのは、これが人間性、とくに私が代表する日本の国民にとって、重要かつ不可欠な問題だからです。」と訴えました。これまでの交渉と牧野の訴えに、反対していた国々が賛成に回り始めました。当時のオルランド・イタリア首相は「諸国民平等、民族の平等という理念はいままで避けてきた問題ですが、私はあえてこれを採用してもいいと思う。」と述べ、これに数ヶ国が同調しました。
そして、日本が採決を希望し、挙手による採決が行われました。結果は、日本の提案に賛成11名、反対5名。日本の提案が通ったと誰もが思ったその時、議長であったアメリカ大統領ウィルソンがこう言いました。「日本の提案は全会一致を得られなかったので不成立と認めます。」牧野はすかさず「なぜ…。当委員会では、これまで多数決ですべてを決定してきたではありませんか。」と訴えましたが、ウィルソンは「このような重要な問題については、全会一致でなければなりません。少なくとも反対があってはならない。」と訴えを退けました。当時、アメリカはアジア人・黒人と白人の間の人種問題を抱えており、人種平等案が国際連盟規約に盛り込まれると、その影響を受けてアメリカ国内の人種問題がさらに大きく広がるとウィルソンは考えたのです。
昭和41(1966)年、人種差別撤廃条約が国際連合総会で採択され、173ヶ国がこの条約に参加しています。牧野伸顕は、昭和24(1949)年にこの世を去り、この日を待つことはできませんでした。昭和10(1935)年、牧野が15年務めた内大臣を退任する際、昭和天皇は次のお言葉をお伝えになりました。「長いことお世話になった。どうぞ身体を大事にする様に。外にあっても私を助けて呉れる様依頼する。」外交指導者・内大臣として活躍した牧野伸顕のような人物が、現代の日本でも望まれています。