平成という現代の情報社会の中で、人間の生き方の指針となるものは数多くありますが、身近なものに「本」があります。その中でも、「歴史小説」は、まさに歴史から生き方や考え方を学ぶことができるものではないでしょうか。今回は、主に幕末から明治時代までの人物に焦点を当てた歴史小説を数多く執筆した、司馬遼太郎を取り上げます。
司馬遼太郎の本名は福田定一といいます。大正12(1923)年、大阪市で生まれました。大東亜戦争が始まった昭和16(1941)年に大阪外国語学校(大阪大学外国語学部の前身)蒙古語科に入学し、その2年後には学徒出陣で軍隊生活を経験しました。戦後は新聞記者として13年在職し、記者時代から小説を発表し、「司馬遼太郎」のペンネームを用いました。これは、「中国古代の歴史家、司馬遷には遼(はる)かに及ばないが、歴史の語り手たらんとする日本の男(太郎)ここにあり」という謙遜と意気込みに満ちたペンネームです。記者時代には、『梟(ふくろう)の城』で、大衆小説作品に与えられる文学賞の直木賞を受賞しました。
ヒット作は数多くありますが、司馬の名前を最初に広めたのは、昭和37(1962)年から4年間産経新聞に連載された歴史小説『竜馬がゆく』でした。坂本竜馬を中心として、幕末の青春群像を描いた司馬は、一気に国民的作家の地位を獲得しました。昭和43(1968)年から5年がかりで完結した『坂の上の雲』は、日露戦争を描いた作品でした。松山出身の、秋山好古・秋山真之・正岡子規の3人にスポットを当て、日本がなぜ日露戦争を戦わざるをえなかったかを語りかけ、日露戦争が祖国防衛戦争であったこと、白人中心であった当時の帝国主義世界の中に、日本が風穴をあけたことなど、当時はあまり語られることのなかった日露戦争の意義を国民の中に浸透させたことは、まさに「教科書が教えない歴史」そのものでした。
このような歴史小説を書く際、司馬は膨大な資料を読み込みました。特に、『坂の上の雲』の準備中・執筆時には、東京・神田の古書店から日露戦争関係の本が消え、同じ題材の本を書こうとした作家が店に行っても資料が1冊もなかったと言われたほどでした。司馬は、「小説の取材ばかりは自分ひとりでやるしかなく、調べている過程の中でなにごとかがわかってきたり、考えがまとまったり、さらにもっと重大なことはその人間なり事態なりを感じたりすることができるわけで、これ以外に自分が書こうとする世界に入り込める方法がなく、すくなくとも近似値まで迫るのはこれをやってゆくほかにやり方がない。」と語っています。史料をもとに推理し、論理を積み上げ、直感によって事実に肉薄し、「物語」として成立させていったのでした。また、小説のところどころに時代背景の解説や、登場人物に関するエピソードも組み込みながら、物語としての厚みを増していったことも、司馬の画期的な表現方法の一つでした。
司馬は、『二十一世紀に生きる君たちへ』というタイトルで、小学校6年生の国語の教科書に書き下ろしの作品を書いたことがあります。「君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。-自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、すなおでかしこい自己を。21世紀においては、特にそのことが重要である。21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、よい方向へ持っていってほしいのである。」自分が生きたまま21世紀を迎えられないことを悟ったのか、やがて21世紀を担っていくであろう子どもたちにむけた力強いメッセージとなりました。
平成8(1996)年2月12日、司馬遼太郎は息を引き取りました。担当編集者を長く務めた和田宏さんは、『司馬遼太郎という人』という著作の中で、最後にこう述べています。「肉体などまことに他愛もない。だが、作品に込められた大いなる魂は永く輝き続けるだろう。」これからも司馬遼太郎の作品は多くの人に読まれ、勇気を与え続けることでしょう。