かつて日本の領有下にあった台湾で、「台湾の恩人」「嘉南大たい圳しゅうの父」と呼ばれている人物がいます(圳は「水路」という意味)。日本人技術者の八田與一(はった よいち)氏です。台湾南部にある、烏う山ざん頭とう水庫とよばれる台湾でも大きなダムの建設指導に当たり、現在もそのダムは残っています。
八田は石川県の農家に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)土木工業科を卒業すると、台湾に行き、台湾総督府土木課に勤務しました。その頃、台湾南部の嘉義県と台南県にまたがる嘉南平野は、台湾の全耕地面積の6分の1を占める広さを持つにもかかわらず、悲惨な状態に置かれていました。5月から9月にかけての雨期には集中豪雨によって氾濫した水におかされ、乾期には水不足で作物が育たないという不毛の地だったのです。
この惨状を知った八田は、東南アジアや中北米の水利事業を視察し、嘉南平野を生き返らせるためにどうすれば良いか考えました。まず、1年を通して安定して水を供給する灌漑施設が必要です。そのために、台南市の北を流れる官田渓という川の上流の烏山頭で、川をせき止めてダムを作り、そのダムから平野に水を供給する給排水路を張り巡らせるよう考えました。八田は、このような構想をまとめた「嘉南平野開発計画書」を作り上げ、総督府に提出しました。これはまさに世紀の大事業というべきものでした。
ダム建設工事がスタートしたのは、大正9(1920)年のことでした。八田は設計者として工事全体の指揮をとるため、烏山頭の宿舎に家族とともに移り住みました。
工事は困難を極めました。ある日のこと、工事現場で石油ガスの大爆発が起こり、数十人が死亡する大惨事となりました。八田は、「せっかくここまでがんばってきたが、もう私の言うことを聞いてくれる人はいないだろう。」と嘆きました。ところが台湾の人たちは、「事故はあんたのせいじゃない。おれたちのために、台湾のためにあんたは命がけで働いているのだ。」と逆に八田を励ますのでした。八田はかつて、リストラを出さなくてはならなかった時も、工事作業員のリストラをしなかったといいます。今の日本のリストラは下の方から首を切られていきます。ところが八田は泣きながら幹部を呼びつけて、「君たちみたいな優秀な人は、よそですぐ仕事が見つかる。だから君たちは辞めてくれ。」と言ったそうです。そのことに台湾の人たちは恩義を感じていたのです。
昭和5(1930)年、10年の年月をかけてついに工事は完成し、嘉南平野は緑の大地に生まれ変わりました。給排水路の長さは16,000キロで、万里の長城の6倍以上に及びます。アメリカのフーバーダムが完成するまでは、世界で一番大きなダムでした。アメリカの土木学会はこれを「八田ダム」と命名し、世界に紹介しました。
八田は、大東亜戦争下の昭和17(1942)年5月、フィリピンの灌漑調査を命ぜられて太洋丸という船に乗りこみました。その月の8日、アメリカの潜水艦の攻撃を受けて船は撃沈され、八田は生涯を終えました。台湾に八田のお墓があり、毎年5月8日の命日には、八田の遺族が招かれ、慰霊祭が行われています。台湾人は今も八田の恩を忘れずに供養をしており、慰霊祭を欠かしたことはありません。また、現在台湾では、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」の建設が進んでおり、平成23(2011)年5月8日のオープンを目指しているそうです。
現在、台湾は発展を遂げていますが、その基礎は農業でした。農業から工業へ、工業から商業へという経済活動の基盤を整備したのが八田でした。現在も八田與一は、満々と水をたたえたダムの北岸に、作業着姿で腰をおろし、片ひざを立てた姿の銅像となって、考え込むかのようにダムを見下ろしています。