今回取り上げる人物は、映画監督の黒澤明さんです。世界的に有名な監督であり、黒澤作品の中には海外の監督に大きな影響を与えた作品もあります。また、今年で生誕100年を迎える人物です。
黒澤明は、明治43(1910)年、4男4女の末っ子として生まれました。父の勇は元陸軍の軍人、母のシマは大阪の商家出身でした。幼少期は、兄と小学校時代の恩師から大きな薫陶を受け、また、終生の友となる脚本家・植草圭之助との出会いもこの小学校でした。中学校ではロシア文学に出会い、自己の人生観、倫理観の形成に多大な影響を受け、その後の脚本構成や映像製作にも大きな影響を与えました。当初は画家を目指し、二科展にも入賞するほどでしたが、昭和11(1936)年、26歳のときに100倍の難関を突破して、PCL映画製作所(現在の東宝)に入社し、そこから映画の世界に没頭しました。
入社の際の選考試験に携わった山本嘉次郎監督によると、「黒澤君が人事課の人と一問一答する中で、『月給はいくらくらい希望しますか?』という問いに、『いくらくれるつもりですか?』と返した。これを聞いてなかなか苦労した人だと思った。」ということがあったそうです。実際、山本監督があとで聞いた話によると、絵では食べていけず、婦人雑誌の料理記事のナスやサバなどの説明図を描いて、かろうじて食べていたようでした。しかし、映画製作所に入社しても、最初から映画監督になれたわけではありません。助監督として入社し、この時期には多くの脚本を手がけました。特に『達磨寺のドイツ人』は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となったそうです。
監督としての最初の作品は、昭和18(1943)年に公開された『姿三四郎』でした。黒澤明が33歳の時でした。その後も、『羅生門』、『白痴』、『生きる』『七人の侍』などの作品を世に送り出しました。
この時代の作品は、特に多くの海外の映画監督にも影響を与えています。米映画『荒野の七人』は『七人の侍』の舞台をアメリカに移して描いたリメイク版で、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』において砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』を参考にしたとされ、ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べています。部分的なものでは、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』の合戦シーンで、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』では雨や風、馬の使い方など、黒澤映画から引用されたショットは多数に渡っています。主役格が七人である映画が多いのも『七人の侍』の影響からということで、俳優で映画監督でもあるクリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っています。
撮影に臨む際、黒澤明は一切の妥協を許しませんでした。具体的には、何ヶ月にもわたる俳優たちの演技リハーサル、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続ける、カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込む、撮影に使う馬はレンタルせず何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使うなど、まさしく映画の「職人」でした。
平成10(1998)年の9月6日、脳卒中のため黒澤明は逝去しました。黒澤の助監督をかつて務めていた、映画監督の堀川弘通氏は「日本の映画産業は日本のやり方で進むしかない。それを教えたのが『クロサワ』映画ではなかったのか、と思う」と述べています。日本には日本の文化があり、アメリカにはアメリカの文化があります。それぞれの習慣が伝統となり生きているものが文化です。そして、その国の文化の成果が「映画」なのです。エジソンのキネマスコープから生まれ、フランスのリュミエール兄弟がスクリーンに映し出した映画を、「職人」としてのプライドを持って作り続けたのが日本人の黒澤明なのでした。