日本史偉人伝

特別編 東日本大震災から一年

2012.03.12

 平成23年3月11日、14時46分に発生した、東日本大震災。あれから一年が経ちました。津波は、東北地方の沿岸を文字通り飲み込み、震源であった三陸沖からはるか西方の熊本・天草まで到達するほどのすさまじいものでした。平成24年3月6日現在で、15,854名の方が亡くなり、3,272名の方が未だ行方不明です。この震災で明らかになったのは、地震・津波、自然の恐ろしさと、日本人、特に東北の方々の力強さでした。緊急事態の際、良い意味でも悪い意味でも人間は本来の姿を表すといいます。そんな状況の中で、自分に危険が迫っているにもかかわらず、最後まで自分よりも他の人々のことを考え行動した方々がいました。その方々を今回は紹介したいと思います。

 岩手県宮古市鍬ヶ崎の宮古漁港にある宮古警察署港町交番に勤務していた中村邦雄さんと村上洋巳さん。その日、非番だった2人は、地震発生後に自主参集で署に駆けつけ、パトカーで漁港周辺に向かいました。副署長は、「自らの判断で持ち場の住民誘導に行ったのでしょう」と話します。中村さんと村上さんが激しい口調で高台への避難を呼びかける姿が多くの人に目撃されていました。第1波で周辺が浸水し、立ち往生した救急車から搬送中の病人を救助しているところに第2波が襲ったそうです。港町交番には、「お勤め、お疲れ様です。安らかにお眠り下さい。」というメッセージが添えられた折り鶴、住民が供える花や飲み物が絶えません。

 宮城県南三陸町の女性職員、遠藤未希さんは、津波が来るその瞬間まで、防災無線で高台への避難を呼びかけました。「6メートルの津波が来ます。避難してください。」押し寄せる津波を前に、呼びかけは何度も何度も繰り返されました。高台に避難した町の人々は、「防災無線がなかったら逃げていなかった」「あの声ははっきり覚えている」と口々に語ったそうです。遠藤さんは、前年の7月に婚姻届を提出し、9月に披露宴を控えていました。24歳という若さでした。5月4日には、しめやかに遠藤さんの葬儀が行われました。会場に駆けつけた町民の一人は「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた。あの放送がなければ今頃は自分は生きていなかっただろう。」と涙を流しながら写真に手を合わせました。南三陸町の防災対策庁舎では、遠藤さん以外にも多くの職員が、最後まで使命を全うしました。

 地域住民のボランティアである消防団員も、多数の方が住民を避難させようとして津波の犠牲になりました。岩手県大槌町の消防団員、越田冨士夫さんは、震災発生後、屯所でサイレンを鳴らすよう団員の一人に指示しました。しかし、町全域が停電していたためサイレンは鳴りません。越田さんは、「早ぐ行げ。みんなを避難させろ。」と団員に指示し、自らは屯所の屋上に上がりました。「カン、カン、カン」と越田さんが鳴らしたものは、大震災時にだけ使用が許可されている特別な半鐘でした。その鐘の音は遠くまで鳴り響き、津波が屯所に達するまで鳴り続けました。

 宮城県女川町の、うに販売会社の専務であった佐藤充さんは、中国人研修生を会社に受け入れていました。地震発生後、宿舎付近の高台に避難していた研修生を、さらに高い高台にある神社へと導きました。佐藤さんはその後、妻と娘を探すために宿舎へ戻りましたが、そこで宿舎ごと津波に呑まれました。研修生は涙ながらにこう言います。「地元の人々の助けがなければ、私たちはとっくに死んでいたでしょう。」震災後、中国の研修生派遣会社が、社長である佐藤さんの兄、佐藤仁社長に慰問の意を伝えました。仁さんは「私の弟は一人の日本人として当然のことをしたまでです。」と答えたそうです。

 今回紹介した方々以外にも、他を思い遣りながら自らが犠牲になった方々が多数いました。この方々が持っていたのは、スクーリングの道徳授業で校長先生がお話になる「利他心」そのものでした。東日本大震災から一年が経ちますが、英雄たちの記憶は、日本人として私たちが将来に語りついでいかなければなりません。


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