現在、インドは世界で2番目に人口が多く、ITサービス業を中心に経済成長を続けている国です。かつて、インドはイギリス領インド帝国としてイギリスに統治されていましたが、インドが独立するきっかけとなったのは「インド国民軍」の結成でした。その結成に深く結びついていたのは、藤原岩市という陸軍少佐でした。
藤原岩市は、明治41(1908)年、兵庫県に生まれました。陸軍に任官後、昭和16(1941)年9月に大本営の密命により、秘密工作として東南アジアのバンコクに派遣されました。密命としては、インド工作(インド人の協力獲得)、マレー人工作(マレー人の反英協力の獲得)、などが主なものでした。これらの任務を行う藤原少佐の機関は、「F機関」と呼ばれました。これは、「Fujiwara(藤原)」、「freedom(自由)」、「friendship(友情)」の3つのFからとったものです。
最初の大きな仕事は、ILL(インド独立連盟)の書記長であったプリタムシン氏との密会でした。IILは、インドの解放と独立を目指すシーク族の秘密結社で、当時もアジアの各国に散らばっていました。藤原少佐はプリタムシン氏に、「私はあなたの崇高なる理想の実現に協力するため、私のすべてを捧げて協力する用意をもって参りました。それは至誠と情熱と情義とインドの自由が必ず実現されねばならないという信念であります。お互いに誠心と情義をもって協力しましょう。」と熱意を伝えました。プリタムシン氏も初対面から打ち解け、インドはインド人の奮起なくして解放と自由を勝ち得ない信念を打ち明けました。
大東亜戦争開戦後、大隊長を説得し、インド人部隊を帰順させた出来事がありました。藤原少佐は、親善のためにインド兵捕虜とF機関、IILの会食を行いました。その際にイギリスインド人部隊のモハンシン大尉から、「戦勝国の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍のインド兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理の会食をするなどいうことは、英軍の中ではなにびとも夢想だにできないことであった。英軍の中では同じ部隊の戦友でありながら、英人将校がインド兵と食を共にしたことはなかった。藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた、温かい催しこそは、日本のインドに対する誠意の千万言にも勝る実証である。インド兵一同の感激は表現の言葉もないほどである。」という趣旨のテーブルスピーチがあり、インド兵も拍手でこれに和しました。このような活動が全マレーに浸透していき、インド人やマレー人が進んでF機関に協力と連携を申し出、信頼は日増しに高まっていきました。
さらに、昭和16(1941)年12月31日、モハンシン大尉から祖国の解放と自由獲得のためINA(インド国民軍)の編成に着手したいという申し出がありました。INAの結成は、インド独立運動の歴史に大きな一歩を刻んだのです。INAは、宣伝班が中心となってまずは敵戦線へ情報を流しました。ILL、INAの話をし、日本軍がインド兵捕虜を優遇し、祖国の独立の手助けをしてくれていることなどを伝え、情報を広げていきました。
戦後、藤原少佐は、イギリスによってINAを裁く、英軍軍事法廷の証人として召喚を受けました。そこで見たものは、イギリスに屈する姿ではなく、法廷の場でインド人が、かつて自分たちを統治していたイギリス人に勇敢に立ち向かう姿でした。結局裁判で判決は出たものの、「刑の執行を停止する」と発表され、被告は釈放されました。
そしてついに、昭和22(1947)年8月15日、インド独立令により、インド民族の手に統治権の完全譲渡が行われ、インド民族200年の悲願であったインド独立を果たすことができたのです。
藤原少佐は、インドで民族独立へのきっかけを作りました。その他の東南アジア各地でも独立の気運が高まり、アフリカの各国も1960年代に相次いで独立への道を歩んでいきました。日本は大東亜戦争で敗れはしたものの、独立によって各国で多くの人びとに誇りを与えたことは大変大きなものです。アジアの多くの人びとが誇りを取り戻したきっかけを作った藤原少佐の名前を、私たちが伝えていきましょう。