今回は、先日テレビでも放映されました映画「硫黄島からの手紙」でも取り上げられた、大東亜戦争時の硫黄島総指揮官・栗林忠道中将を紹介します。
栗林忠道は、明治24(1891)年7月7日、長野県に誕生しました。栗林家は戦国時代から続く武士の家系で、明治以降は地主として農業を営んでいました。忠道は長野県立長野中学(現・長野高校)を卒業後、明治44(1911)年に陸軍士官学校に入学しました。その頃から筆まめで、両親に宛てた手紙で兵営生活について説明しています。
忠道は、大正6(1917)年、陸軍の騎兵学校に入校します。そこには、「典渡(てんと)」というずば抜けた能力を持つ名馬がいましたが、荒馬としても有名でした。入校したばかりの忠道は果敢に典渡にかかりましたが、一日に何度となく忠道は馬場に叩きつけられます。しかし、忠道は落とされても落とされても、すぐに立ち直り、「これでもか!」というようにかかっていきました。休み時間には毎日のようにその光景が繰り広げられました。そしてある日、ついに典渡は忠道に乗ることを許したかのように、神妙に待ちうけ、手綱のままに動くようになりました。
栗林忠道中将が硫黄島に派遣されたのは、昭和19(1944)年のことでした。ちょうどサイパン島が危なくなった頃で、硫黄島は東京から1250㎞、サイパンから1400㎞という距離にあり、その両者を直線で結んだちょうど中間地点に位置しています。アメリカにとって、硫黄島はサイパン陥落後、次に何としても欲しい場所でした。しかし、日本側にとっても、硫黄島を失うことは、本土防衛の拠点の喪失だけでなく、日本の歴史上初めて日本の国土の一部を侵されることであり、何としても避けなければならない状態でした。通信制高校 硫黄島1.jpg
着任後、栗林中将は島の隅々まで見て回り、地形と自然条件を頭に叩き込むことから始めました。硫黄島には休火山があり、島の名の通り地中から硫黄ガスが噴き出す場所があります。また、地熱は摂氏60度になるところもありました。最も大きな問題は、飲み水をはじめとする水の不足でした。川が一本もなく、湧き水も一切ない上に、岩と砂でできている硫黄島は雨水がすぐに地面にしみ込んでしまいます。兵たちに、「この島では、水の一滴は血の一滴だ」と諭し、上級幹部に対しても水の浪費を厳しく戒め、自らも毎日、わずかな水で全てを済ませました。飲用も、一人当たり水筒1本と定め、栗林中将自らもそのようにしました。また、戦いに備え、天然の洞窟を利用し、地下陣地を構築して通路でつなぎ、島全体を要塞化する方法を考案しました。
硫黄島での戦いは、昭和20(1945)年2月16日、アメリカ軍の激しい爆撃で始まり、3日間に渡って爆撃が行われた後、アメリカ軍の上陸が始まりました。しかし、栗林中将は上陸する海岸に狙いを定めて攻撃を始め、相手側にも大きな被害を与えました。1000を超えるといわれる数の地下壕をうまく活用し、地下道を通って思いがけない場所から攻撃する戦闘法を取り、アメリカ軍を混乱させました。5日間で終わると思われていた戦いは、すでに1ヶ月になろうとしていました。3月16日、栗林中将は総攻撃の決心を固めました。米軍の出方を見極め、3月26日夜、最後に呼びかけた電報の一文「予は常に諸子の先頭に在り」と宣言した通り、栗林中将自らが戦闘に立って米軍の野営地に総攻撃を仕掛けました。指揮官なき後も、地下壕に潜んでいた兵は戦闘を続け、アメリカ軍に挑んでいました。
栗林中将は、総攻撃前に大本営に次の辞世の句を電報で送っています。
「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」
それから約50年後の平成6(1994)年2月、天皇陛下が硫黄島を訪問された際、御製をお詠みになりました。
「精根を込め戦ひし人未だ 地下に眠りて島は悲しき」
硫黄島、そして日本を守ろうと懸命に戦った栗林忠道中将は、まさに「精根を込め戦ひし人」であったのです。