前回に引き続き昭和天皇について書きたいと思います。前回は主に終戦後の御巡幸、晩年のご様子をお伝えしましたが、今回は、ご即位後から終戦までの昭和天皇のご様子を取り上げたいと思います。
昭和3年(1929年)、昭和天皇のご即位を祝う分列式と奉祝歌奉唱が行われました。しかし、当日は嵐に近い豪雨。宮内大臣は陛下に、「今日は非常な荒天でございますから、どうか天幕の中で御親閲を願いとうございます」とお伝えしたものの、陛下はお聞き入れにならず、天幕を取り除くようにおっしゃいました。会場では、天幕が取り外されたために、宮内庁の担当者に「なぜ、天幕を外すのか」という質問が相次ぎましたが、「陛下の思し召しによるものです」という回答を伝えると、間もなくそれが参加者約8万名に伝わりました。陛下の、「君たちがぬれるなら、私も濡れよう」というお気持ちを受け取った参加者は、大雨の中にもかかわらず外套(コート)を脱いで分列行進に参加しました。陛下は、青年たちが外套を着ていないのをご覧になり、側近がかけた防水マントをお脱ぎになってそれにお応えになりました。後ほど、側近がなぜマントを脱がれたかお尋ねしたところ、「皆が着ておらぬから」とのお言葉だったそうです。常に国民と共にあろうとされる昭和天皇のお人柄がうかがわれるエピソードです。
さて、大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)が終戦し、今年で65年経ちますが、その際に終戦の決断を下されたのも昭和天皇でした。昭和20年(1945年)8月9日、日本に対して提示されたポツダム宣言の受諾をめぐって御前会議(天皇陛下にご参加頂き行う会議)が開かれました。参加者は総理大臣、外務大臣、軍を統率する陸軍大臣・海軍大臣など11名でした。当時の状況としては、6日に広島に原子爆弾が落とされ、8日にソビエト連邦(現ロシア連邦)が日本に参戦し、会議の行われた9日には長崎にも原子爆弾が落とされるという、深刻な状況でした。会議ではポツダム宣言を受け入れるとする外務大臣を中心とした意見と、本土決戦を行おうとする陸軍大臣を中心とした意見に分かれ、まとまりませんでした。もちろん、どちらの意見も日本の将来を案じてのことです。そこで当時の鈴木貫太郎総理大臣が、「誠におそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをお伺いして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います」と昭和天皇のご聖断を仰ぎました。張り詰めた空気の中、陛下はおっしゃいました。
「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である。」
その瞬間、参加者は涙を落とし、次の瞬間はすすり泣き、さらに次の瞬間は号泣でした。陛下もお泣きになり、しぼりだすようなお声で理由をおっしゃいました。
「自分の任務は祖先から受け継いだ、この日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残っていてもらって、その人たちが将来再び起ち上がってもらう外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまま戦を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は明治天皇の三国干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない。耐え難きこと忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をした次第である。」
終戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)のマッカーサー総司令官にも、同じように、「今回の戦争の責任は全く自分にあるのだから、自分に対してどのような処置をとられても依存はない」とおっしゃり、その様子を見たマッカーサー元帥は「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べています。
2回にわたって、64年続いた昭和という時代を支えられた昭和天皇を取り上げました。その時代は「激動」と言うにふさわしい時代の日本でしたが、昭和天皇は常に国民を第一に考えられ、見守っていらっしゃいました。その記憶をしっかりと後世に伝えていきたいものです。