今回は、吉田松陰、坂本竜馬とも親交を深め、尊王攘夷運動に大きくかかわりを持った、横井小楠を紹介します。
文化6(1809)年、横井小楠は、肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、熊本藩士・横井時直の次男として生まれました。文政元(1818)年、肥後藩の藩校・時習館に入校します。成績優秀であった小楠は、居寮生となったのち、講堂世話役を経て、天保8(1837)年には、時習館居寮長(塾長)となりました。天保10(1839)年、藩命により江戸に遊学し、滞在中に幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結びました。
天保11(1840)年、酒に酔ってトラブルを起こした小楠は藩にお咎めの処分を受け、翌12(1841)年に帰藩します。肥後藩の財政難もあり、横井家の家計も赤字続きでした。そのような状況の中、酒の失敗を反省するとともに、これまで学んだ学問を整理し、自らの実践に重点を置く朱子学の研究に没頭しました。小楠は、この頃から時習館時代の友人であった元田永孚らと研究会を始めます。書物の読み合わせをしたり、時には質疑討論を行う場面もありました。これが後に「実学党」という党派になります。その後、これまで守ってきた藩政を続けることに努める「学校党」、尊皇攘夷を主張する「勤皇党」と対立することとなります。肥後藩筆頭家老の松井章之は「学校党」のトップであり、小楠らが財政改革論『時務策』を起草し、藩政改革を求めても、それを取り入れようとはしませんでした。
小楠は、天保14(1843)年、自宅の一室で私塾を開きました。弘化3(1846)年には転居して塾を新築し、「小楠堂」と名付け、20余名の塾生が寄宿しました。小楠は塾生に対し、「書物の上だけで物事を理解するのではなく、古人(昔のすぐれた人)の学んだやり方を学ぶ真の学問をするように」と諭しました。教育的態度は厳格でしたが、その一方、身分や年齢にかかわりなく塾生一人ひとりの才能を大事にした指導を行い、小楠堂の評判は高まりました。
嘉永6(1853)年10月、吉田松陰が長崎に向かう途中、熊本の小楠堂に立ち寄り、3日間親しく語り合いました。宮部鼎蔵から話を聞いていた小楠は、松陰と語り合えたことを大変喜んだそうです。松陰は小楠の学問や考え方を深く理解し、実践に向け大きな期待を持っていました。
安政2(1855)年5月、小楠は沼山津(現在の熊本市南区沼山津)に、私塾四時軒を建てました。現在も横井小楠記念館として存在しています。当時はさびしい村でしたが、塾からの眺めはすばらしく、四季折々の風景を楽しむことができました。
そんな中、小楠は越前藩の招きにより福井に行きました。藩士の教育や貿易の指導をするとともに、藩内の派閥争いを諌めるため、「国是三論」を著しました。藩主の松平春嶽は小楠を高く評価しており、春嶽が、幕府で大老に相当する政事総裁職に就任したのち、文久2(1862)年に小楠が出した建白書「国是七条」を幕政の方針とし、改革に乗り出しました。そのうちの全てが実行されたわけではありませんが、幕府の改革に大きな影響を与えました。
小楠は、坂本龍馬とも交流を持ちました。小楠が越前にいた頃、龍馬も勝海舟の命で越前を訪れていました。由利公正と3人で囲炉裏を囲み、龍馬は「君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行く末」と歌を詠んでいます。龍馬も3度四時軒を訪れ、交流を深めました。
明治維新後、小楠は政府の参与に就任しました。しかし、明治2(1969)年1月5日の午後、「天主教(キリスト教)を国内に広げようとしている」といううわさを信じた攘夷派の志士によって暗殺されました。
横井小楠と交流のあった勝海舟は、小楠を次のように評しています。「おれは今迄に天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ。横井は西洋の事も別に澤山は知らず、おれが教えてやった位だが、その思想の好調子な事は、おれなどはとても梯子を掛けても及ばぬと思った」(『氷川清話』より)
吉田松陰からも「先生」と呼ばれた横井小楠。この二人に共通していることは、「これからの日本をどうするか」という大局に立った視点でした。現在の時代においても、私たち一人ひとりがその視点を持つことを求められています。