今回は、坂本龍馬とともに薩長同盟を成立に導いた、中岡慎太郎を紹介します。
中岡慎太郎は、天保9(1838)年4月13日、土佐国(高知県)に、大庄屋の中岡小伝次の長男として生まれました。小伝次は、農民の信望のきわめて厚い、学問見識の豊かな尊王心の深い人物でした。
慎太郎は、幼少のころより人柄・学業ともに優れ、14歳で通学する塾の代講を勤めるほどでした。そしてなおかつ、誠実・剛毅な心の持ち主でした。18歳の時、武市半平太のもとに入門し、剣術を学びました。そこで坂本龍馬と出会います。20歳の時には大庄屋の見習いとなって父を助け、地元の農民のために苦労をいとわず働きました。役人と掛け合うこともありましたが、常に誠実に説得を行い、目的を達していました。
土佐の藩士は、「上士」と「郷士」に分けられていました。上士は関ヶ原の戦いの後に土佐にやってきた山内家の家来であり、郷士は土着の長曽我部系の武士でした。身分差ははるかに上士が上でしたが、幕末に立ち上がったのは郷士の方でした。しかし、武市が旗揚げした土佐勤皇党は弾圧を受け、武市は山内容堂から切腹を命じられたのです。この様子から土佐藩には期待できないと考えた勤皇党の面々は、命がけで脱藩を行いました。慎太郎も、家族にも告げず脱藩し長州へ走り、亡くなるまでの4年間、慎太郎はついに家に帰ることはありませんでした。
父に遺書を書き残し、元治元(1864)年7月からの禁門の変にも参戦した慎太郎でしたが、負傷して九死に一生を得ます。しかし、その後も馬関戦争にも出陣し、9月にはひそかに上京して京都の情勢を探りました。11月からは、長府の功山寺に移った三条実美ら五卿の警護に当たり、長州尊皇攘夷派の指導者として先頭に立った高杉晋作を助け、苦楽を共にしました。12月には、薩摩の中心人物であった西郷隆盛に会い、その会談がのちの薩長同盟の礎となりました。
慶応元(1865)年、慎太郎は『時勢論』を書き、その中で、薩摩を代表する人物として西郷隆盛、長州を代表する人物として木戸孝允と高杉晋作を挙げ、「天下を興さんものは必ず薩長両藩なるべし」と結論付けています。その春から、慎太郎は2度にわたって上京し、薩摩の主要人物に薩長の同盟を熱心に説きました。西郷としては、長州に異存がなければ賛成でしたが、藩論をまとめるのに苦心していました。一方、坂本龍馬も下関で木戸孝允に同盟を強く勧め、木戸もまた、薩摩が誠意をもって応ずるなら同盟に異存はありませんでした。両藩は歩み寄り、慶応2(1866)年正月、ついに薩長同盟が成立しました。この時、慎太郎は太宰府で五卿の応接係として側を離れることができず、坂本竜馬の立ち合いで同盟が成立したために龍馬のみが脚光を浴びましたが、中岡の尽力も龍馬に劣らぬものがあったのです。この薩長同盟が明治維新成就のための大きな基盤となりました。
その後、慎太郎が目を向けたのは、故郷である土佐でした。板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行、谷干城らを中心に、佐幕一辺倒では土佐は時代に取り残されると感じた面々は慎太郎や龍馬に接近しました。もちろん慎太郎も熱心に、土佐が薩長と並んで立つことを力説しました。慶応3(1867)年5月には、板垣を西郷に紹介し、何かあった際には藩内の討幕派を率い、薩長とともに立ちあがることを約束しました。西郷も、この申し出を喜んで承諾するとともに、中岡の尽力に感謝しました。
明治維新を成し遂げる一歩手前まで来た慶応3(1867)年11月17日、近江屋事件で重傷を負った中岡慎太郎は、坂本龍馬の後を追うように息を引き取りました。
中岡慎太郎は、坂本龍馬に比べると表に立つことはほとんどなく、縁の下の力持ちに徹していました。しかし、薩長同盟のおぜん立てと土佐での尊皇運動における中岡慎太郎の働きは大変大きなものでした。坂本龍馬は、中岡慎太郎を信じること深く、姉の乙女に「この人は私同様の人」と述べています。中岡と坂本の2人は真に信頼し合った同士なのでした。