日本史偉人伝

島津 斉彬(なりあきら)

2018.12.01

今回は、西郷隆盛らを重用し、薩摩藩の工業化政策を主導した、島津斉彬を紹介します。

 

文化6年(1809)年3月14日、第10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれました。母・弥姫(周子)は「賢夫人」として知られた女性で、この時代には珍しく、斉彬に乳母をつけず、弥姫自身の手で養育しました。また、曽祖父である第8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもちます。

嘉永4(1851)年、お家騒動などに巻き込まれながらも、斉彬は藩主となりました。当時、間接支配下にあった琉球に異国船がたびたび来航するようになっており、異国船がもたらす情報はすべて琉球から薩摩藩に報告されていました。そんな中、斉彬は、「植民地政策をとる西欧列強が、強大な軍事力を背景としてアジア・アフリカ諸国を次々に植民地にしている」という情報を得ます。これらの情報を分析した斉彬は、「理化学に基づいた工業力こそが西欧列強の力の根源である」と結論付けました。そこで、日本の独立を守るためには、西欧諸国の技術を導入して軍事力を身につけることが必要であると確信し、近代的な大規模洋式工場群の建設に着手したのでした。ただ、幕府や他の藩の様式工場と違うところは、軍事的色彩の強い分野だけではなく、薩摩切子と呼ばれるガラス製品や薩摩焼に代表される陶器、製薬、印刷、食品など多岐にわたりました。庶民の生活に密着したものが多かったのが特徴です。その理由は、斉彬の次の考えからでした。

「独立を守るためには、軍艦や大砲が必要不可欠である。しかし、軍艦と大砲だけでは国を守れない。それよりも大事なのは、国民みんなが力を合わせ、気持ちを一つにすることだ。そのためには、人々の生活が豊かでなければならない。国中の者が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の和はどんな城郭にも勝る」

薩摩藩主となって3年目の嘉永5(1853)年に、ペリーが来航します。日本にとって大きな国難でした。このとき斉彬に、幕府が長年禁じてきた軍艦建造の許可がようやく下ります。斉彬は、直ちに蘭書の翻訳書を頼りに西洋式軍艦の建造に着手しました。翌年暮れに完成したのが、わが国初の西洋式帆船型軍艦「昇平丸」で、全長27メートル、大砲16門を備えたものでした。老中をはじめ幕府の首脳・諸大名を船に招き、鹿児島から江戸湾に回航させると、人々はその出来映えに驚嘆し、斉彬をほめたたえたということです。

斉彬は、この軍艦を惜しげもなく幕府に献上しました。それは、欧米から日本をいかにして防衛し、独立を守るかを言葉ではなく実践を以て形で指し示そうとの思いからでした。当時は「日本国」という意識が薄い時代でした。そのような時代から、斉彬は「未来の日本のため」の思いを持って行動していました。

その昇平丸の船尾には、現在の日本の国旗である「日の丸」が掲揚されていましたが、この原型を提案したのも斉彬でした。鹿児島城で、桜島に昇る朝日を見た斉彬は、「日本の将来は、古代から日本人が命の恩として愛してきた、輝く太陽のようでなければならぬ」と考え、太陽のマークである「日の丸」を日本の総船章とすることを建議し採用されます。安政2(1855)年、昇平丸の船尾に掲揚されたのが、「日の丸」が日本の国旗として船舶に掲揚された第一号となりました。

斉彬は人材育成にも力を入れました。安政元(1854)年4月、西郷隆盛をお庭番とし、世界情勢や日本の歩む道を説いて聞かせたと言われています。お庭番は、身分は低くても、藩主に御目見えするためにわずらわしい手続きを必要とせず、いつでも会うことができました。大久保利通も同様でした。そのような斉彬の薫陶を受けながら、西郷らが後に明治政府を作り上げることになったのです。

 

島津斉彬は、安政5(1858)年の7月8日、鹿児島城下で練兵を観覧の最中に発病し、7月16日に50歳でこの世を去りました。しかし、文久3(1863)年、勅命により照国神社の御祭神「照国大明神」として祀られて現在に至ります。藩内でかつて鹿児島城内での大砲製造に失敗した際、斉彬は家臣を責めずに、励まし続けました。それと同じように、現在も鹿児島の様子を見ながら人々を温かく見守っているのではないでしょうか。


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