校長の道徳授業

情けは人の為ならず

2017.08.15

7月号では、与える人生と貰う人生について学びました。そして与える人生は与えられるものを最大化する、一方でもらう人生は与えられるものを最小化するというのが7月号の話のポイントでした。

 そして日本では「傍楽」(はたらく)文化であって、与える生き方こそが日本の勤労観だと説明しました。

 では与えるものは何かというと、モノやカネではなく「幸せ」なのです。幸せを相手にプレゼントする方法は、返事するとき「はい」を「拝」と、漢字をイメージして大きな明るい声で応える方法を教えました。これができるようになったら与える人生に舵を切ったことになるのです。

                〇 情けは人の為ならず

「情けは人の為ならず」という昔からの日本のことわざがあります。これは「人に親切にしておけば必ず良い報いがある」という意味です。

また、「与えよさらば与えられん」というキリストの言葉がありますが、これも同じ意味です。

8月号では、「情け」が時を超えて「良い報い」となって返ってきたという歴史秘話を紹介しましょう。

エルトゥールル号の教訓

<トルコ航空機が日本人を救出>

時は、昭和60年(1985年)のこと。 

イラン・イラク戦争が勃発。イラクのサダム・フセイン大統領が『今から48時間後の3月19日午後8時30分以降、イランの上空を飛ぶ飛行機はすべてイラク空軍の攻撃対象として撃墜する」と、突然宣言したことがありました。

世界各国はびっくりです。飛行機を飛ばして自国民の救出に当たったことは言うまでもありません。

しかし、日本は「憲法9条」の規定があって自衛隊機を派遣できませんでした。そこで日本政府は、民間機に協力を要請しましたが、航空会社の従業員組合が「自衛隊もいけないような危険なところに行くのは反対」と言って応じてくれません。そうこうするうちに48時間のタイムリミットが近づいてきます。

現地に取り残されていた200人を超える日本人の皆さんはパニックですよ。彼らは、日本の経済成長を最前線で担ってきた人たちですよ。祖国を遠く離れた灼熱の砂漠地帯で、様々なプラントの建設工事に当たったり、商社マンであったり、技術者だったり…。しかもその中には82名の女性や子供もいました。

その方々を日本国は助けにも行けなかったのです。

憲法9条?平和憲法があるから国民の命を助けにも行けない?そんなのが「平和憲法」なものかと、当時の日本人の多くが思いました。

19日のタイムリミットが近づいたころのことです。

2機のトルコ航空の民間機が、テヘランのメヘラバード空港に着陸しました。

そして思いもかけず、日本人全員を乗せてくれたではありませんか。1番機は午後5時10分に離陸、2番機は午後7時7時30分に離陸し、午後8時20分、タイムリミット直前にイラン国境を超えることができたのです。まさに間一髪のところで、日本人215人全員の命は助かりました。

当時イランに在住していたトルコ人は600人を超えていました。しかし、トルコ人のうち百数十人のみしかこの2機の飛行機には乗れなかったのです。取り残された500人ほどのトルコの人々は陸路で灼熱の砂漠地帯を、途中山賊などに脅かされながら脱出するしかなかったのです。

しかし、トルコ政府が日本人を優先して救出したことにトルコの国民はもとより、この時救援機に乗せてもらえなかった人々のうち、誰一人として批判する人はいませんでした。

日本は危険だからという理由で助けに来てくれなかった。危険だから助けが必要なのに…。しかしトルコの人々は何故、自国民より優先してまで、危険を冒して日本人を助けてくれたのでしょうか?

その救出劇から、時間をさかのぼること95年前、明治23年(1890年)のこと、こんなことがあったのです。

<エルトゥールル号の遭難>

明治23年(1890年)916日深夜、日本との友好のために訪日していたトルコの軍艦エルトゥールル号が、帰国途中、台風の影響で紀伊半島沖の樫野崎付近の岩礁に座礁して沈没し、乗組員650名中69を除く581人が死亡するという痛ましい事故が発生した。

大島は、東西6キロ南北3キロの小島である。島の北側は比較的なだらかな斜面であるが、それ以外はすべて切り立った断崖ばかり。特に遭難現場となった南岸は人を寄せ付けない40メートルもの断崖絶壁。

地元の大島村樫野地区の住民が総出で、この40メートルの断崖を命からがら救出し、ありったけの食料と衣服や布団で介抱し、傷の手当てをした。50戸ほどしかない小さな樫野地区のこと、おまけにこの年は漁獲量も少なく、米価の高騰などで食料事情は最悪だった。自分たちでさえ飢えをしのぐのがやっとという状況の中で、村民たちは貴重なコメやイモを差し出して生存者に食べさせた。しかし、その食料もすぐに底をつき、万一の時用に大事に育ててきた鶏まですべて供出して介抱に努めた。

報せを受けた大島村長の沖周(あまね)の迅速で的確な対応で、和歌山県知事から報告をお受けになった明治天皇は、政府を挙げての救助に当たらせられ、地元自治体はもとより、海軍も出動しての救助が行われた。

その後、日本政府は、生き残った69名の乗組員を、軍艦「金剛」と「比叡」2隻に乗せ、全国民から集まった義援金と共に、母国トルコへ送り届けた。

当時の日本人は貧しかったけれども、困っている人がいたら自分のことは後回しにして助けてあげる、助けを求める人がいたら自らの命の危険を顧みず助けることが当たり前の国民性だった。

<95年前の恩返し>

 それから95年後。

元駐日大使ネジアティ・ウトカン氏は、イランに取り残された日本人を救出した理由を次のように語った。

 「95年前、エルトゥールル号の事故で、大島の人や日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは、忘れていません。」

日本政府が救援機を出さなかった理由が、航空機と乗務員の安全の保障がなかったからであった。しかし、救援機を出してくれたトルコ航空では、アラル総裁が熟練の機長や客室乗務員を招集し、

「これはとてつもなく危険な任務だ。日本人を救出するこの任務に、命を懸けてテヘランまで飛んでもいいという人にだけ正式に飛行命令を出す。志願者はいるか」

と問うと、全員が躊躇なく手を上げて志願したという。オラル総裁は拍手してこう述べた。

「この瞬間ほど私はトルコ国民であることに誇りに思ったことはない。我々の手で日本人を救出しよう。百年前のエルトウールル号の恩を今こそ返すのだ」

そのなかの一人客室乗務員だったミュゲ・チェレヒさんは、後日この時のことを次のように話したそうである。

「自分はあの時妊娠していた。しかし日本人を助けることができるチャンスだ。大昔の恩を返したかった。だから妊娠のことを言うと行かせてもらえないから夫にも会社にも内緒にしました」

 「情けは人の為ならず」とはこういうことです。100年近くも前の大島の人々の「親切」が、多くの日本人の命を救い、その後の日本とトルコの友好関係を築いてくれたのです。

 

 

 

 


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