~国を愛する心を育むために(その10)~
世界の指導者が語る大東亜戦争の真実(アジア編その2)
今回はインドです。
インドは、南アジアにある人口12億1千万人を超える世界第2位の人口大国です。1947年にイギリスから独立しました。
<T・R・サレン(歴史学博士・インド国立歴史調査評議会理事)>
「日本は、ある特別な動機により戦争に踏み切りました。アジアの地域が独立すると、日本は共栄圏を設立しようとしましたが、イギリスやアメリカは、ヨーロッパ帝国主義に代わって、日本が居座るつもりだと宣伝しました。
しかし、それは日本の目的ではありませんでした。東南アジアにおける日本の目的は全く別のことでした。日本の目的は外国の武力をアジアから駆逐(くちく)することにあったのです。ヨーロッパの歴史家も正しい認識により日本を評価しており、現在では日本が戦争に踏み切ったのはアジアにおけるヨーロッパ支配を終結させるためだったということに同意しています。」(「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著;ハート出版)
<K・サブラーマンヤム(国際政治学者・インド国防次官)>
「客観的な歴史はやがてアジアの植民地主義の終焉(しゅうえん)への日本の貢献をきちんと記録するだろう。東南アジアで日本軍が、アメリカ、イギリス、フランンス、オランダの植民地占領軍を素早く撃破したことが戦後の帝国主義勢力のアジア復帰を困難にしたのだ。中国の指導者たちが、日本軍による自国民の苦痛を語ることは正当化されるかもしれないが、他のアジア諸国について語る資格はない。」(同上)
<ラダクリシュナン(インド第2代大統領)>
「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈める(注1)などということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きたのだ。」(同上)
(注1)
1941年12月8日、海軍の真珠湾の攻撃とは別に、陸軍はマレー半島に上陸、破竹の進撃を開始したが、同時に海軍は、イギリスのアジア侵略の象徴であり、アジア植民地の守護神としてシンガポールに派遣されていた世界最強で不沈戦艦と恐れられていたイギリス海軍が誇る「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」を攻撃し、1941年12月10日(開戦2日目)午後12時半、攻撃開始からわずかに2時間足らずの戦闘で撃沈させた。
また、イギリスの世界的歴史学の権威アーノルド・トインビーは次のように言っている。
「(このことは)特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それは、永続的な重要性を持つ出来事であった。なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は(この二戦艦が象徴し)、この地域における西洋全体の支配をも象徴してきていたからである。1941年、日本はすべての非西欧諸国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。」(「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助著:展転社)
<スバス・チャンドラ・ボース(インド独立の英雄)>
「大東亜戦争の開始以来、歴史に比べるもののない日本軍の勝利(注2)は、アジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、インドの完全な無条件の独立を援助するものである。……今やインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しない限り、インド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、英米帝国主義との終焉もない。自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情と共に戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。(昭和19年3月20日にラングーンの自由インド放送からインド同志への呼び掛けた演説)(「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」)
(注2)
マレーシアのコタバルに上陸した日本陸軍は、マレーシアを植民地として数百年の間支配してきたイギリス軍と戦い、わずか55日間でマレー半島を占領、開戦70日後にはシンガポールを陥落させ、イギリス軍は日本軍に無条件降伏しました。
その後も日本軍は破竹の勢いで進撃し、半年で東南アジアと西南太平洋の意広大な地域を占領しました。(「この世にダメな人間なんて一人もいない!!」)
<S・S・ヤダバ(インド国民軍大尉・インド国民軍全国在郷軍人会代表)>
「我々インド国民軍将兵は、インド解放をするために、ともに戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華(さんげ)(戦死)した日本軍将兵(注3)に対して、最も深甚な敬意を表します。インド国民は、大義のために生命をささげた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで決して忘れません。我々は、この勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈りいたします。
私が、最も日本人を好きになったのは、シンガポールが陥落したころ、捕虜となった我々を兄弟のように扱ってくれたことでした。イギリス人は、我々を差別して、一緒に食事もしないし、同じ車にも乗りませんでした。ところが日本人は、喜んで我々と一緒に食事をしてくれました。このように、人種や身分といった差別を抜きにして同じ釜の飯を食べ、平等な取り扱いを受けたことが、我々、インド国民軍に大きな精神的影響を及ぼしたのです。」(「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」吉本貞昭著)
(注3)インパール作戦
インドは1858年以来英国の植民地となった。大東亜戦争初戦の大勝利で日本軍が陥落させたシンガポールで、チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府が日本軍の後押しで設立され、インド独立に向けた活動が始まる。
チャンドラ・ボースの強い要請を受けた日本は、インパール作戦(英印軍のビルマ侵攻の阻止と自由インド仮政府によるインド独立の支援を目的として、日本軍とインド国民軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦)を敢行。(1944・3~7)
航空兵力の支援を受けた英印軍の反撃と補給の途絶によって悲惨な退却戦となり、死傷者7万2千人をだしこの作戦は失敗に終わった。
しかし、日本軍とともにインパール作戦を戦ったインド国民軍は、日本が大東亜戦争で敗退後、英国がこのインド国民軍の兵士を拘束、裁判にかけたことからインド中に反英・独立運動が激化する。日本やドイツとの戦争で疲弊した英国にもはやこれを抑える力はなく、独立を認めざるを得ず、独立を30年早めたともいわれる。
<グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)>
「日本がこのたびの大戦に負けたことは、まことに痛ましい。しかしどの民族も、幾度もこのような悲運を経験している。~中略~
私は日本が極めて近い将来に、必ず、アジアの大国として、再び復興繫栄することを信じて疑わない。インドはほどなく独立を全うする。その独立の契機を与えたのは、日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドだけではなく、ビルマ、インドネシア、ベトナムをはじめ、東南アジア諸民族共有である。インド4億の国民は、これを深く肝に銘じている。」(同上)
<P・N・レイキ(インド最高裁弁護士)>
「太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤す限り、夜空に星が輝く限り、インド国民は日本国民への恩を決して忘れない。」(靖国神社への書簡)