~国を愛する心を育むために(その8)~
世界の指導者が語る大東亜戦争の真実(アメリカ編その3)
平成28年1月号からの連載は、「有権者となる皆さんへ」です。この間4月に熊本地震があり、7月号及び8月号は震災特別号のみ発行(6月号は特別号と2種類の発行)、9月号は、18歳選挙権が導入されて初めての選挙となった参議院選挙の結果を受けての記事でしたから、この連載は3か月分中断していましたが、今月号から復活します。
5月号と6月号は、「世界の指導者が語る大東亜戦争の真実」アメリカ編その1と2でした。
「戦後」の日本国民は、大東亜戦争を太平洋戦争と教えられ、日本は侵略国家であったと思い込まされてきました。この歴史観のままでは「主権者」として最も重要な「国を愛する心」は育ちません。
この連載は、当時、世界の指導者だった人たちの貴重な証言を紹介することで、大東亜戦争とは何だったのか、その真実を探っていこうという企画です。
5月号は、第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバー、6月号は、戦後日本の占領軍の最高司令官だったマッカーサーを取り上げました。今回は、3人目のアメリカ人にご登場願います。名前は「ハミルトン・フィッシュ」。
日米戦争開戦時の共和党の最有力政治家(下院議員)で、開戦時のアメリカ大統領ルーズベルト(民主党)が最も恐れたといわれている人物です。彼の回想録「ルーズベルトの開戦責任」(渡辺惣樹(そうき)訳)から、日米開戦に至る歴史の真実を検証したいと思います。
ハミルトン・フィッシュは、ルーズベルト大統領の経済政策「ニューディール政策」を批判し、かつ非介入主義(ヨーロッパの戦争に巻き込まれるなという考え方)の議会における代表格でした。その当時米国では、80%以上の国民と75%の連邦議会(日本の国会)議員が非介入主義だったのです。ルーズベルト大統領も選挙公約で「他国の戦争に介入しない」ことを公約として掲げて当選した立場でした。
このような状況下で、日本の真珠湾攻撃が起こりました。1941年12月8日早朝のことです。ルーズベルト大統領が、日本に対して宣戦布告を議会に求めたのは真珠湾攻撃の翌日です。
有名な「恥辱(ちじょく)の日」演説の冒頭です。
「昨日即ち1941年12月7日(ハワイ時間)、我が国は大日本帝国の海軍空軍兵力によって突然の、かつ入念に計画された攻撃を受けた。12月7日は我が国の『恥辱の日』として記憶されることになろう。」
そして
「我が国と日本は平和状態にあり、同国政府および天皇と、太平洋方面における、平和維持に向けて交渉中であった。」
として、日本が突然襲ってきたと強調し、議会に対し日本との戦争を認めるよう求めたのでした。
議会側を代表して演説に立ったのが、ハミルトン・フィッシュ下院議員。開戦反対の代表格は次のように熱弁をふるったのです。
「私は再三再四、外国での戦争に我が国が参戦することに反対を表明してきた。しかし日本民族は、神が破壊せしものになり果てた。日本人は気が違ってしまったのである。真珠湾攻撃は、まさに国家的自殺行為である。戦いの時は来た。堂々とアメリカ人らしく戦いを始めよう」
と、国民に戦意を鼓舞したのでした。こうして日米戦争は始まりました。
しかし、ルーズベルト大統領の死後、彼の対日外交の詳細や真珠湾攻撃に至るまでの外交機密文書が明らかになり、ハミルトン・フィッシュはその時初めて、彼を含む連邦議会の議員、国民全てがルーズベルトに騙されていたことに気が付くのです。
以下ハミルトン・フィッシュの回想録からの抜粋を見てみましょう。
「あの戦いの始まりの真実は、ルーズベルトが日本を挑発したことにあったのである。彼は、日本に、最後通牒(つうちょう)を突き付けていた。それは秘密裏に行われたものであった。真珠湾攻撃の10日前には、議会もアメリカ国民をも欺(あざむ)き、合衆国憲法にも違反する最後通牒が発せられていた。大統領は我々を欺いて、日本を利用して裏口から対ドイツ戦争を始めたのである。」(P17~18)
(注;「最後通牒」というのは、1941年11月26日、アメリカ国務長官ハルの名前で日本に提示された外交文書ハル・ノートのことで、その内容はとても日本が受け入れることができない強硬なものであった。ちなみに最後通牒とは、外交交渉打ち切りと宣戦布告をも意味する)
このハル・ノートについてフィッシュは次のように述べています。
「ハル・ノートが何を引き起こすか、それはだれにでもすぐわかることである。第1にどのような政権であれ、ハル・ノートを受け入れれば政権は崩壊するということである。
第2に、ハル・ノートに示された過激な要求で、太平洋地域の和平の維持を目指す米日の会談はもはや望めないということである。そして3つ目は、ハル・ノートを受け取った日本は、最早宣戦布告なしで対米戦争を始めておかしくないということであった。」(P218)
そしてハル・ノートに至るまでの日本の対米外交姿勢について彼の証言は以下の通り。
「日本は我が国との戦いを避けるためには、ほとんど何でもするというような外交姿勢をとっていた。~中略~ 近衛(このえ)首相は平和を希求していた。ワシントンへでもホノルルへでも出かけて行ってルーズベルトと直接交渉することを望んでいた。我が国の要求に妥協し、戦いを避けるための暫定協定を結びたいと考えていた。しかしルーズベルトは近衛首相との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった。」(P208)
「日本は満州を除く中国そしてベトナムからの撤退も検討していた。南下政策はとらないという妥協の準備もあった。あれほど強力な国である日本にこれ以上の条件を我が国は要求できたであろうか。天皇も近衛首相も和平維持のために信じられないほどの譲歩をしようとしていたのである。」(P209)
「天皇は道義心にあふれていた。そして平和を希求していた。彼を取り巻く軍国主義者をけん制していた。日本との戦いは不要であった。両国とも戦いを望んでいなかった。我が国は日本と戦って得るものは何もなかった。中国はアメリカの友好国であったが、その中国でさえも結局は共産主義者の手にわたってしまったのである。」(P209)
先に紹介した「恥辱の日演説」は全くのウソだったということ、そしてそれに続くハミルトン・フィッシュの演説は、ルーズベルトに騙された結果であったということの貴重な証言です。
これはまさに戦後の私たちの歴史観を180度逆転する重大証言だと言わなければなりません。
最後にフィッシュの次の言葉で締めくくりとしましょう。
「その事実を隠す(かくす)権利はだれにもない。特に歴史家がそのようなことをしてはならない。両国の兵士は勇敢に戦った。彼らは祖国のために命を犠牲にするという崇高な戦いで命を落としたのである。しかし歴史の真実が語られなければ、そうした犠牲は無為(むい)になってしまう。これからの世代が2度とこのような落とし穴にはまるようなことは何としても避けなければならない。」(P,18)
大東亜戦争は、日本が世界征服を目論んで引き起こした侵略戦争であったという戦後の歴史観が正しいのか。あるいは、アメリカ編その1で取り上げたフーバー元大統領、その2のマッカーサー元最高司令官、そして今回のハミルトン・フィッシュ、3人とも、時の大統領ルーズベルトが仕掛けた戦争であって、日本が侵略目的で始めた戦争ではなかったことを証言しています。「歴史の事実を隠す権利はだれにもない」し、歴史の真実を知ることは、私たち主権者の基本的でかつ極めて大事な権利なのです。