マレーシア独立秘話~「ハリマオ」と呼ばれた男(1)
先月号で、私の青年時代の体験談を書きました。内容は「マレーシアで知った日本の輝かしい歴史の真実」の話でした。それは、入学式の校長式辞でも話しました。
その中で紹介したマレーシアの私の心の友であり今は亡きラティフの話をもう少し続けようと思います。
世界史上最大の出来事と言っても過言ではない「植民地時代の終わりと人種平等の時代の幕開け」は、昭和16年12月8日に始まった日本陸軍によるマレー・シンガポール作戦の大成功がきっかけとなりました。
それまでの約500年間は、欧米列強国による有色人種国家に対する植民地支配と人種差別の時代でした。その忌まわしい人類史に終止符を打ったのが、唯一有色人種の国家で独立を維持していたわが日本でした。そしてその壮大な歴史の舞台となったのが、マレー半島でした。
そのことを私に教えてくれたのが、他ならないラティフでした。
ラティフは1935年生まれでしたから、私より10歳年長で、今生きていれば83歳ですね。大東亜戦争開戦時6歳です。
マレーシアは多民族国家で国民の65%がマレー人、24%が華人(かじん)
(中国人の華僑(かきょう)、以下華人と称する)インド系は8%です。ラティ
フは、インド系マレー人でした。
彼は、地元(ジョホール州)警察でも将来を嘱望(しょくぼう)される優秀な
幹部候補でした。
ある時、ラティフの上司からこんな話を聞きました。
「ラティフは優秀で、将来ジョホール州の警察を背負って立つと期待しているが、みんなから変人扱いされている。これを直さないことにはどうにもならん。変人扱いされている理由は、日本人の若い旅行者を街で見かけると、必ず声をかけて自宅に招待して、何日も宿泊させ、家族上げて大歓待。別れる際には、乏しい給料の中から工面して、小遣いまで持たせることだ。」
私がラティフと会ってその話をしたのが、4月号で紹介した<長時間話し込んだ>あのエピソードです。
私は、ラティフに尋ねました。
「ラティフよ。君の上司が君の変人ぶりを心配してたけど、どうして変人扱いされてまで、あんなことを繰り返しているのかい?」
「俺は、何もモノ好きでやっているのではないよ。日本の若者に質問したいことがあるからだ。しかし、日本人はシャイだから、数日一緒に生活して親しくなってから聞くのさ。質問の内容は、1つめは天皇陛下のこと、2つめは大東亜戦争のこと。」
と言うのです。そして、激昂(げっこう)してテーブルをたたきながら、
「ノダ、日本の若者はどうなってしまったんだ。日本では戦後どういう教育をしているんだ。」
「天皇陛下のことを『自分には関係ネーヨ』と言うし、大東亜戦争を太平洋戦争と言って、みな異口同音に『父親たちの世代が悪いことをしました。すみません。』と言って頭を下げる。」
「俺はマレー人だけど、世界で一番尊敬しているのは日本の天皇陛下だ。それは俺だけではない、アジアの人々はみんなそうだ。」
と言って、続けて、マレーシアやアジアの数百年間の植民地だった悲惨な歴史と、日本が大東亜戦争でイギリスやヨーロッパの国々を一時的ではあったけれどもアジアから追い出したから、日本は戦争に負けたけど、戦後アジアの国々は独立し、今日のように白人と対等に付き合えるようになったんだと、涙ながらに訴えるのでした。
その後も、会うたびに、この大東亜戦争の話は、ラティフの口から速射砲のように出てきて、その都度、感動したことを覚えています。
彼が語ったマレーシア独立の歴史の秘話の中から、3つを選んで皆さんに伝えておきたいと思います。
1つは、「ハリマオ」と呼ばれた日本の青年の話。
2つは、「ハリマオ」を窮地から救い出し、マレーシア独立の際にハリマオと行動を共にした「トシサン」こと「神本利男」(カモトトシオ)の話。
そして3つは、「F機関」の機関長藤原岩市の話です。
何せ50年前に聞いた話です。しかし、この3人の名前は彼の話の中で何度も何度も出てきたからよく覚えています。その後自分なりに勉強して知ったことを加えながら、今月号から複数回にわたって、紹介していきます。
今月は、まず「ハリマオ」の話からです。
ラティフの話の中で、幾度も「ハリマオ」という英雄の話が出てきました。マレー語で「ハリマオ」は虎のこと。「ハリマオ」とあだ名で呼ばれることは、彼らの最高の尊敬の気持ちを表していることを知っていました。ですからはじめは、ハリマオとは、てっきりマレー人の英雄のことだと思って聞いていました。しかし、そうではなく「ハリマオ」が日本人の青年のことだとわかったのは、彼の話が終わって、しばらくたってからのことでした。
ハリマオは本名を「谷(たに) 豊(ゆたか)」といいます。福岡出身の谷浦吉とトミの長男として、
明治44年(1911)に生まれました。豊が1歳の時、谷一家は、マレー半島東岸の町
トレンガヌに移住しました。
父浦吉は理髪店を営み、結構繁盛したといいます。昭和6年、満州事変勃発(ぼっぱつ)の年、
浦吉は53歳でこの世を去ります。浦吉没後は、トミを中心に女手で店を切り盛りし
ていました。
豊は、徴兵(ちょうへい)検査(けんさ)のため帰国し、その後福岡の民間会社で働いていました。
当時のマレーシアは、イギリスの植民地支配の下にありました。昭和12年(1937
年)シナ事変が始まり、マレーシアでも、華人やイギリス人の間に反日機運が広が
っていきました。
ある日、事件は起こりました。華人の一団が、町中の日本人の商店などを次々に襲撃して、暴力を働き金品を強奪(ごうだつ)していったのです。
トレンガヌの谷家では、2階で風邪をひいて寝ていた5歳のシズ子が犠牲になりました。暴徒は幼いシズ子の首を切り、髪をつかんで振り回し談笑しながら、意気揚々と身を隠していた谷家の家族の前を通り過ぎていったのです。
その首がシズ子であったことに気づいたのは、暴徒が過ぎ去って、シズ子の変わり果てた亡骸を見た時でした。
犯人たちは、植民地政府のイギリス人警察官に逮捕され、裁判にかけられましたが、半年後に無罪で釈放されたというのです。
豊は、新聞報道でこのことを知ってマレーに帰り、何度も植民地政府や裁判所に抗議しましたが、取りつく島もありません。それどころか、豊を逆に逮捕して収監してしまう有様です。
釈放された豊は、妹シズ子の敵討ち(かたきうち)を誓いました。豊は、裕福なイギリス人や華人の家に押し入り、強盗を働き、盗んだ金品は、貧しいマレー人やインド人に配る義族(ぎぞく)となりました。しかし、傷つけたり殺したりは一切しなかったと、ラティフは自分の兄弟を誇るように、この話をするとき、胸を張りました。「ハリマオは正義の味方だ」と。
そんな豊を、マレーの人々は「ハリマオ」と畏敬の念を込めて呼ぶようになり、ハリマオの男気と義侠心にあこがれたマレー人の子分は3千人にも上り、イギリス人や華人を震え上がらせるまでになって、ハリマオの首には植民地政府から高額の賞金が懸けられ、お尋ね者になっていました。(6月号に続く)